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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.10.23 · 8分で読めます

日米繊維交渉と八王子繊維工業団地 —— 沖縄返還と引き換えられた「糸と縄」、産地は構造改善の波をどう迎えたか

1969〜1972年の日米繊維交渉が沖縄返還と引き換えられたとされる経緯と、その後の国の構造改善事業が八王子繊維工業団地の分譲とどう時期を重ねたかを、確認できる史実と未確認情報を区別しながら追う。

ろくろの上で粘土を成形する職人の手元

1971年3月、アメリカ大統領から日本の首相に一通の書簡が送られました。文面は「失望と懸念を隠すことができない」という、外交文書としては異例なほど強い言葉で始まっていたといいます。原因は基地問題でも安全保障条約でもありません。ネクタイやセーターに使われる繊維製品の、対米輸出量をめぐる交渉でした。

この国家間の攻防は、沖縄返還というもう一つの大きな懸案と引き換えられたとさえ言われています。そして、その余波は巡り巡って、八王子の織物産地のかたちまで変えていきました。国の政策がどのような道筋をたどって、桑都の工業団地に行き着いたのかを追っていきます。

連載「桑都の織物史」第19回|この連載をまとめて読む


「糸と縄」の密約 —— 沖縄返還と引き換えられた繊維問題

ことの始まりは、1968年のアメリカ大統領選挙でした。リチャード・ニクソンは、繊維輸入の規制強化を公約の一つに掲げて当選します。当時のアメリカ国内では、日本をはじめとするアジア各国からの繊維製品の流入が自国業界の脅威とみなされており、ニクソン政権は日本に対し、包括的な輸出規制協定の締結を強く求めていきます。

これを受けて、1969年11月、佐藤栄作首相とニクソン大統領による日米首脳会談が開かれました。この会談で、佐藤首相は1972年に予定されていた沖縄返還と引き換えに、繊維問題を1969年中に妥結させるという「密約」を交わしたとされています。繊維(糸)と沖縄(縄)という語呂合わせから、「糸と縄」の取引と呼ばれる逸話です。ただし、この口頭合意そのものを直接記録した公文書の存否については、研究者の間でも論争があり、複数の新聞・学術論文で広く言及される「見立て」として扱うのが実態に近いといえます。沖縄という国家の重大な懸案の陰で、ネクタイ地やセーターの輸出量という、一見地味な通商問題が深く絡み合っていたという構図自体は、外交文書や新聞報道によって裏付けられています。


輸出織物産地としての八王子の黎明(明治〜昭和初期)

この国家間の攻防の舞台裏で、なぜ八王子が当事者の一人になったのか。その答えは、明治期にまで遡る産地の歩みにあります。

明治19年(1886年)、仲買商らが「八王子織物組合」を結成しました。当時、粗悪な輸入化学染料によって八王子織物の品質が低下するという問題が起きており、これを乗り越えるため、翌明治20年(1887年)には技術向上を目的とした「染色講習所」が新町に開設されます。日本の染色技術の第一人者が講師として招かれたと伝えられています。

本文画像: 手仕事で織物を織る手元

明治32年(1899年)には、機屋(はたや)や買継商、撚糸業者まで含めた約3,900人の組合員で「八王子織物同業組合」が設立され、周辺49町村の生産地を束ねる体制が整いました。そして昭和9年(1934年)には「八王子輸出織物工業組合」が設立されます。この組織名そのものが、当時すでに輸出が産地にとって重要な位置づけだったことを物語っています。大正3年(1914年)の第一次世界大戦による好景気で力織機への転換が進み、戦後の「ガチャ万景気」を経て、昭和30年代には八王子はネクタイ地生産で全国の6割を占めるまでに成長しました。輸出産地としての八王子の存在感は、半世紀以上かけて積み上げられたものだったのです。


交渉決裂、そして異例の非難書簡

1969年の首脳会談で妥結を目指したはずの繊維交渉は、実際にはすぐにはまとまりませんでした。1971年2月、業界団体である日本繊維産業連盟が自主規制案を発表しますが、アメリカ側はこれを不十分だとして受け入れず、輸入制限の発動をちらつかせて日本側に一段の譲歩を迫ります。同年春、交渉はいったん決裂しました。

ここで送られたのが、冒頭で触れたニクソン大統領の非難書簡です。1971年3月11日付でまとめられたこの声明は、「失望と懸念を隠すことができない」という表現で日本側の対応を批判するもので、同盟国に対する外交文書としては異例な強い語調だったと記録されています。交渉は暗礁に乗り上げたまま、半年近い空白が続きました。

転機をもたらしたのは、政治家としての交渉力で知られる田中角栄でした。1971年7月に通商産業大臣に就任した田中は、自ら交渉の打開にあたります。その結果、同年10月15日に仮調印、翌1972年1月3日に「日米繊維協定」が正式に調印されました。

協定は、人造繊維製品・毛製品の対米輸出を数量規制する包括協定で、基準年の輸出量に対して人造繊維製品は105%、毛製品は103%までという上限と、輸入が一定水準を超えれば自動的に輸入制限が発動する「トリガー条項」を組み合わせた内容でした。なお、この協定が八王子特産のネクタイ地のような絹織物・和装関連品まで対象に含んでいたかどうかは、調査した一次資料の範囲では明記が確認できていません。対象はあくまで「毛製品及び人造繊維製品」であり、生糸・絹織物は別枠として扱われていた可能性があります。


田中角栄の「2000億円」構造改善事業

交渉をまとめた田中角栄が示したのは、規制を受け入れるだけの譲歩案ではありませんでした。対米輸出規制という「屈辱」を国内業界にどう納得させるか——その答えとして用意されたのが、生産性の低い旧式織機を政府資金で買い上げて廃棄させる「構造改善事業」です。買い上げの総額は約2,000億円、当時の通商産業省の一般会計予算のおよそ半分に相当する規模だったとされています。

本文画像: 白壁の蔵の前に置かれた行商の荷

この事業は、昭和42年(1967年)に制定されていた「繊維工業構造改善臨時措置法」(法律第82号)を法的な基盤として実施されました。繊維交渉そのものより前から存在していた法律を土台に、交渉妥結後の対策として本格的に運用されたことになります。この構造改善政策は、その後平成6年(1994年)の法改正などを経て、最終的には平成11年(1999年)6月に廃止され、繊維政策は一般の産業政策へと統合されていきました。輸出規制を受け入れる代償として設備更新の原資を得る——この取引は、繊維業界全体にとって、屈辱を好機に転換する政治的な決着だったと評価されています。


八王子繊維工業団地の分譲と、組合史に残された空白

この全国レベルの構造改善の波と、ちょうど時期を重ねて動いていたのが、八王子の現場でした。昭和45年(1970年)、「八王子繊維工業団地」の分譲が開始されます。これは、日米繊維交渉がまさに山場を迎えていた時期——1969年の首脳会談から1971年の交渉決裂・再開を経て1972年の正式調印に至る、まさにその最中にあたります。

この工業団地は現在も健在で、「製品開発に意欲的な企業や高度な技術力を有する企業が集積している地域」として、約30社が立地する準工業地域になっています。分譲開始という大きな動きが、国の構造改善事業(旧式織機の買い上げ・集約化)の一環として実施されたのか、それ以前から進んでいた中小企業近代化資金助成法・繊維工業設備臨時措置法の流れの延長線上にある、別個の近代化事業だったのか——年代が重なるという事実だけでは、どちらとも断定できません。

手がかりになりそうな記録が一つあります。八王子織物工業組合が編纂した「八王子織物工業組合百年史」には、「構造改善事業問題」という章が存在することが、国立の図書検索システムの書誌情報から確認できます。組合自身が、この問題を産地の歴史上の重要な論点として記録していたことがうかがえます。しかし、現時点でオンライン上から確認できたのは、この章が「存在する」という書誌情報のみです。構造改善事業によって八王子のどの工場、何台の織機が対象になり、国からの補助額がいくらだったのか——本文の具体的な内容は、今回の調査では確認できていません。


円高の時代へ —— 力織機9,000台から758台への道

構造改善という国家間取引の落着のあとも、八王子の織物産地は新たな波に向き合うことになります。昭和53年(1978年)の円高の影響を受けながらも業界は発展を続け、昭和56年(1981年)には「第一回服地と洋装雑貨織物展」が銀座で開かれ、国際市場への展開強化が図られました。

しかし、本当に大きな転機は昭和60年(1985年)9月のプラザ合意でした。この合意を機に為替は急激な円高に進み、合意からわずか1日で1ドル=235円前後から約20円の円高となり、翌1986年7月には150円台まで進行したと記録されています。これ以降、安価なアジア製品の流入も加わって、八王子織物は厳しい価格競争に直面していきます。

この長期的な変化を映す数字として、1950年代に9,000台以上あった力織機の台数は、1998年(平成10年)には758台にまで減少したという統計が残っています。生産品目も、和装向けの「多摩結城」や「紋ウール着尺」といった品から、インテリア・服地・ネクタイ・マフラー・ストールなどの洋装製品へと、生産の軸足を移してきました。1969年から1972年にかけての日米交渉と構造改善という大きな政治決着を経て、八王子の産地は輸出から内需へ、和装から洋装へと、何度も姿を変え続けてきたのです。


まとめ

沖縄返還と引き換えられたとされる日米繊維交渉は、国家間の外交として歴史書に刻まれています。その同じ時期に、八王子では繊維工業団地の分譲が始まり、全国規模の構造改善事業(旧式織機の買い上げ)が進められていました。年代が重なるという事実は確認できる一方、八王子の現場で構造改善事業がどのように具体的に適用されたのかという詳細は、現在確認できる史料の範囲では明らかになっていません。国家間の大きな取引と、一つの産地の静かな転換点——その因果関係を断定せず、並べて見ていくことが、桑都の織物史を正確に伝えるための姿勢だといえるでしょう。


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連載「桑都の織物史」は、八王子の織物産業がたどった500年あまりの歴史を一話ずつ紐解くシリーズです。


参考文献

世界と日本データベース・東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「日米繊維協定」原文 / 世界と日本データベース「日米繊維問題に関する大統領声明」 / 日本経済新聞「『糸と縄』絡まる密約 日米繊維交渉」 / 幻冬舎ゴールドオンライン「『2000億円よろしく頼む』日米繊維交渉にみる角栄の仕事力」 / 衆議院法制局「繊維工業構造改善臨時措置法の改正」 / 東京都島しょ振興公社「八王子繊維工業団地」 / 昭和館デジタルアーカイブ「八王子織物工業組合百年史」蔵書検索 / 八王子市ホームページ「八王子織物の歴史」 / 八王子織物工業組合公式サイト「歴史・伝統」 / 楽天証券メディア「プラザ合意、急激な円高へ」

この記事は連載「桑都の織物史」第20話です (全21話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。