多摩織の現在地 —— 名誉都民・澤井伸と、伝統工芸とテクノロジーの接続
令和6年に東京都名誉都民に選ばれた多摩織の伝統工芸士・澤井伸氏。養蚕農家から続く機屋が、Googleのプロジェクトに参画し、産地の縮小の中で他産地との連携を広げてきた歩みを一次資料で辿ります。

この記事の目次
令和6年、一人の織物職人に東京都から最も格式の高い栄誉が贈られました。これまで俳優や文化人、学術関係者が名を連ねてきた「東京都名誉都民」に、八王子の機屋(はたや)の当主が選ばれたのです。その工房は、Googleのプロジェクトに技術協力した経歴も持ちます。令和の多摩織が、一つの工房でどう織られ、どう外とつながっているのかを追いました。
連載「桑都の織物史」第16回|この連載をまとめて読む
一人の職人への顕彰 —— 令和6年、東京都名誉都民へ
令和6年(2024年)、織布工(多摩織)伝統工芸士の澤井伸(さわいしん)氏が、東京都名誉都民候補として選定されました。東京都議会の同意を経て正式に顕彰が決まり、東京都の公式資料によれば、選定時点(令和6年10月1日現在)で74歳、八王子市在住と記されています。
名誉都民は、東京都の顕彰制度のなかでも最も格式が高いものの一つとされています。これまでの受賞者は俳優や文化人、学術関係者が中心で、一人の伝統工芸士がこの栄誉を受けた例は異例にあたります。長く地道に織物と向き合ってきた一職人の仕事が、行政によって公式に高く評価された出来事といえるでしょう。
この名誉都民という栄誉は、突然もたらされたものではありません。澤井伸氏はここ十年ほどの間に、東京都や国の複数の顕彰制度で表彰を重ねてきました。平成28年(2016年)には「東京マイスター」(東京都優秀技能者知事賞)に認定され、平成30年(2018年)には「現代の名工」として厚生労働大臣表彰を受けています。
さらに令和3年(2021年)には黄綬褒章を受章し、その3年後に名誉都民という最も格式の高い栄誉へとつながりました。都道府県単位の技能者表彰から国の褒章、そして都の最高位の顕彰へと、一段ずつ評価の階段を上ってきた軌跡が、この背景にあります。
この顕彰は、多摩織という工芸そのものの技術的な到達点を、東京都が公に認めた事例でもあります。では、その評価を受けた工房は、実際にどのような歩みをたどってきたのでしょうか。
澤井織物工場 —— 養蚕農家から4代続く機屋へ
澤井伸氏が営む澤井織物工場(有限会社澤井織物工場、東京都八王子市高月町)は、当代の澤井氏で澤井家として19代目、織物業としては4代目にあたるといいます。一族はもともと江戸時代後期から養蚕農家として八王子で暮らしており、織物業そのものの歴史はおよそ100年から120年に及ぶとされます。
澤井伸氏は昭和25年(1950年)3月10日生まれ。大塚服装学院(現・早稲田国際ビジネスカレッジ)を卒業したのち、25歳ごろから家業である織物業に本格的に従事したといいます。平成9年(1997年)には、経済産業大臣指定の伝統的工芸品・多摩織の伝統工芸士(総合部門)に認定されました。家業に入ってから伝統工芸士として認められるまで、20年以上の歳月を要したことになります。
多摩織は、お召織・紬織・風通織・変り綴・綟り織という5種類の織物の総称で、昭和55年(1980年)に国の伝統的工芸品に指定された技術です。澤井織物工場は、この多摩織の技術を土台にしながらも、着物という枠にとどまらない製品づくりを進めてきました。
事業内容は、アパレル企業向けの製造が全体の8割から9割を占め、最小製造単位(ロット)は平均50枚から100枚程度という小ロット生産を特徴としています。マフラーやストール、ネクタイ、インテリア小物など、着物以外の製品展開も進めてきました。小さな単位で多様な注文に応える姿勢が、この工房の持ち味の一つといえそうです。
Googleと組紐 —— Project Jacquardという異色の協業
養蚕農家に始まる伝統の機屋が、思いがけない形で最先端技術と出会った出来事があります。平成28年(2016年)、GoogleのATAP(Advanced Technology and Projects)部門とLevi’sが共同開発した、衣服をタッチセンサー化するプロジェクト「Project Jacquard(プロジェクト・ジャカード)」に、澤井織物工場が素材開発の一社として参画したのです。
澤井伸氏によれば、澤井織物工場は古くからシンプルで緻密な絹の組紐(くみひも)を手がけてきました。その組紐が持つ伸縮性を活かし、導電性の糸と衣類に縫い込める超小型電子部品を組み合わせる技術に協力したといいます。伝統的な組紐づくりの技術が、デジタルデバイスの素材開発という異分野にそのまま応用された形です。
この協業の成果は、リーバイスのスマートデニムジャケット「Levi’s Commuter × Jacquard by Google」として、2017年の春夏シーズンに商品化されました。自分のスマートフォンを、袖に触れる操作で扱えるジャケットです。東京都の広報媒体は、澤井氏の「伝統工芸は同じ物を作り続けていればよいものではなく、常に変化していかなければならない」という考え方を紹介しており、この理念のもとで開発したウールストールが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションに選定されたとも伝えられています。
伝統工芸の技術が、世界的なテクノロジー企業のプロジェクトと接点を持ち、美術館のコレクションにまで至る——この広がりは、多摩織という工芸が持つ技術的な奥行きを物語っています。
産地の縮小と、それでも拡がる連携
澤井織物工場が属する産地には、長い組織の歴史もあります。明治32年(1899年)、重要輸出品同業組合法に基づき「八王子織物同業組合」が設立され、組合員数は約3,900人に及んだといいます。昭和15年(1940年)の同業組合法廃止に伴って同組合は解散し、「財団法人八王子織物奨励館」として組織され直しました。その後、昭和25年(1950年)に「八王子織物協同組合」へ改称し、昭和33年(1958年)に現在の「八王子織物工業組合」へと組織変更されて現在に至ります。組合事務所は八王子繊維貿易館内に置かれ、直販ショップの運営やオンラインでの情報発信を続けています。
一方で、多摩織を取り巻く産地そのものは、規模の縮小という厳しい現実に直面してきました。連載第15回「力織機の導入と八王子織物の近代化」で辿った通り、産地の力織機は1950年代には9,000台以上あったとされますが、1998年(平成10年)には758台にまで減少したといいます。令和の現在、多摩織の技術を継承する工房は、産地全体でおよそ9軒にまで絞られているとも伝えられています。
この縮小する産地の中で、澤井織物工場は他産地・異業種との連携を積極的に進めてきました。奄美大島の伝統的な織物とのコラボレーションでは、多摩織を織る際に余った経糸(たていと)を活用し、新たな織物を作るアップサイクルの試みを行っています。また、蚕(かいこ)が食べる桑の葉を使い、自社で織ったシルク生地を桑の葉染めで染めるという、養蚕地としての八王子の資源を活かした事業も展開しています。
京都・滋賀・愛知(有松絞り産地)・新潟・山形・徳島といった他産地との連携、北海道士別市のサフォークウールの使用、岩手県での紡績委託など、原料調達から加工まで、産地を越えたネットワークを築いていることもうかがえます。縮小する地元の産地だけに頼らず、外へ外へと手を伸ばしてきたことが、この工房の持続につながってきたのかもしれません。
後継という課題
連載第4回「多摩織の担い手をどう繋ぐか」で触れた、伝統工芸士の資格取得に12年の実務経験が必要という制度上のハードルは、澤井織物工場にも等しく当てはまります。澤井伸氏自身、家業に入ってから伝統工芸士として認定されるまでに20年以上を要したことは、先に見た通りです。技術の継承には、どうしても長い時間がかかります。
そうした中で、次の世代への動きも見えてきています。澤井伸氏へのインタビューによれば、澤井織物工場では長女(被服系学科卒業)が生産管理を担当しており、家業を継承する意向を持っているといいます。氏名までは明らかにされていませんが、次代を担う存在が育ちつつあることがうかがえます。
工房のスタッフには、多摩美術大学や武蔵野美術大学のテキスタイル専攻卒業生を含む若手も加わっており、現在のスタッフ規模はおよそ9人、大多数が女性だといいます。江戸時代後期の養蚕農家に始まり、19代・織物業として4代を数える家業が、新しい担い手を迎えながら次の時代へと続いていこうとしている——その現在地が、名誉都民という栄誉の背景にあります。
まとめ
養蚕農家から4代続く機屋が、Googleのプロジェクトに技術協力し、産地の縮小という逆風の中でも他産地との連携を広げてきた——澤井伸氏と澤井織物工場の歩みは、令和の多摩織が置かれている現在地を具体的に映し出しています。一人の職人への名誉都民という顕彰は、個人の功績であると同時に、多摩織という工芸全体が到達した技術の高さを示す出来事でもあるのでしょう。
産地全体で見れば工房の数はかつてに比べて大きく減りましたが、縮小の中でも異分野や他産地との接点を広げ、次の担い手を迎え入れようとする動きが続いています。桑都の織物史は、まだ終わっていません。
この連載の他の記事
連載「桑都の織物史」は、桑都・八王子の織物産業500年の歩みを時代ごとに辿るシリーズです。
- 前の回: 力織機の導入と八王子織物の近代化 —— 大正の電化が変えた産地のかたち
- この連載をまとめて読む: 八王子と織物 —— 桑都500年の歴史を読む
参考文献
東京都「令和6年度名誉都民候補者 澤井伸(さわいしん)氏」「東京都名誉都民候補者の選定について」 / TOKYO UPDATES「澤井織物が示す多摩織の技術と進化、境界を超えるものづくり」 / 日立ソリューションズ「挑む人 第7回 伝統工芸士(多摩織)澤井伸『「いま」を注視し伝統を紡ぐ』」 / Fragments「服をデジタルデバイスに! Googleと『Levi’s』による最先端プロジェクト『Project Jacquard』に採用された日本の伝統技術とは?」 / ITmedia NEWS「リーバイス、Googleと開発中のスマホ操作デニムジャケットを来春発売へ」 / 広報東京都「江戸から伝わる匠の技 東京の伝統工芸」 / つくるのいえ「澤井織物工場 独自の革新を続ける伝統工芸士がいる織物工場」
この記事は連載「桑都の織物史」第17話です
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