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地域の未来 · 公開: 2026.08.05 · 7分で読めます

由木地区と多摩ニュータウン開発史 —— 一つの村が消えた日、団地が来た日

南大沢・堀之内一帯はかつて由木村という独立した村だった。1964年の八王子市編入から多摩ニュータウン計画による丘陵地の再開発、そして40年後の高齢化課題まで、由木の変貌をたどる。

新鮮な野菜が並ぶ市場の露店

南大沢や堀之内で暮らす人の多くは、この一帯がかつて「由木村」という独立した村だったことを知らない。谷戸に水田と桑畑が広がっていたこの土地は、1964年のある日を境に八王子市の一部となり、その後の多摩ニュータウン計画でまったく違う街に生まれ変わった。駅も大学も商業施設もなかった村が、なぜ今のような街になったのか。一つの村が消え、団地が来るまでの60年を追う。


一つの村が消えた日 —— 由木村、八王子市になる

昭和39年(1964年)8月1日、由木村は住民投票の結果を経て八王子市に編入合併しました。合併当時の人口は約6,000人程度だったとされています。東京オリンピックが開催されたその年、日本中が高度経済成長の熱気に包まれていた一方で、多摩丘陵の小さな村では、自分たちの村がどこに帰属するのかという根源的な問いが住民の暮らしを揺さぶっていました。

現在の感覚では、隣接する市への編入は淡々とした行政手続きに思えるかもしれません。しかし由木村にとって、この合併は決して穏やかな道のりではありませんでした。合併先を八王子市とするか日野市とするかをめぐって村を二分する激しい争いが起き、合併案の強行採決や村長のリコール運動といった混乱を経て、最終的に住民投票による決着にたどり着いたのです。

村がどちらの市と手を結ぶかは、単なる行政区分の問題ではありませんでした。通勤・通学の先、買い物に出かける先、将来の暮らしの基盤——村民一人ひとりの生活実感が、賛成派と反対派それぞれの立場を支えていたはずです。だからこそ議論は長引き、村政を揺るがす対立にまで発展したのでしょう。

村の名前が地図から消え、住所の表記が変わる——そうした変化を、当時の住民たちは行政手続きの積み重ねの先にある既成事実として受け止めるほかありませんでした。地元紙には「気づけば住所が八王子市になっていた」という当時の受け止め方を伝える記述も残っています。激しい論争の末にたどり着いた結論が、日常の中では静かに、しかし確実に暮らしを塗り替えていったのです。


谷戸に広がっていた由木の景色 —— 合併前の暮らし

編入前の由木村が含んでいたのは、現在の南大沢・堀之内・別所・松が谷・鹿島・東中野・松木・越野・鑓水・上柚木・下柚木といった町域です。多摩丘陵の谷戸地形に集落が点在する、農業中心の村でした。谷戸とは、丘陵地の間に刻まれた小さな谷のことで、雨水や湧水が集まりやすく、古くから水田や養殖に利用されてきた地形です。今の京王相模原線の車窓から見える街並みからは、その原型を思い描くのは容易ではありません。

由木地区の主な産業のひとつに、コイの養殖業があります。大正10年(1921年)創業の吉田観賞魚販売など、丘陵の谷戸に湧く水を活かした養殖が営まれていました。今日のニュータウンの街並みからは想像しにくいものの、水と土に根ざした暮らしが、合併の時点ではまだこの地域の中心だったのです。駅もなく、大学もなく、商業施設もない。あるのは谷戸の水と、そこに寄り添うように営まれてきた農と漁の暮らしでした。

この「農村としての由木」の姿は、わずか十数年のうちに大きく塗り替えられていくことになります。八王子市への編入は、その後に訪れる巨大な開発計画の、いわば序章に過ぎませんでした。


転機 —— 多摩ニュータウン計画、由木の丘陵を書き換える

1960年代、東京は深刻な住宅難と地価高騰に直面していました。地方から人口が流入し続ける一方で、都心に住宅を確保することは難しく、郊外へと無秩序に開発が広がる「スプロール化」も社会問題になっていました。都市周辺部の乱開発を防ぎながら、大量の良質な住宅を計画的に供給する——そうした目的のもと、昭和40年(1965年)12月、多摩ニュータウン計画が決定されます。

計画区域は多摩市・八王子市・稲城市・町田市の4市にまたがる広大なものでした。事業主体も東京都、日本住宅公団(現・都市再生機構)、東京都住宅供給公社と複数にわたり、国家的なプロジェクトとして進められました。一つの自治体で完結する話ではなく、複数の市と複数の事業主体が連携して丘陵地を街に変えていく、当時としては前例の少ない大規模事業だったのです。

八王子市域における計画面積は1,112.8ヘクタール(新住宅市街地開発事業910.8ヘクタール、土地区画整理事業202.0ヘクタール)にのぼります。対象となったのは下柚木・上柚木・鑓水・南大沢・越野・松木・別所・堀之内・東中野・鹿島・松が谷の各地区——つまり、かつての由木村の全域にほぼ重なっていました。合併からわずか1年後、由木の丘陵地は日本有数のニュータウン開発の舞台になったのです。谷戸の水田や桑畑は、この計画決定を境に、次第に造成地へと姿を変えていくことになります。


まちびらきの年表 —— 鹿島・松が谷から南大沢へ

多摩ニュータウンの入居は、市域をまたいで段階的に進みました。まず1971年3月、隣接する多摩市地区で先行して入居が始まります。計画決定からおよそ5年半、まだ由木地区には具体的な変化が及んでいない時期です。

八王子市域では、1976年3月に鹿島・松が谷地区で入居が始まりました。これが市域における多摩ニュータウン入居の最初期にあたります。かつての谷戸の風景に、初めて団地の建物が姿を現した瞬間でした。多摩市地区の入居開始から5年、由木村が八王子市に編入されてからは12年が経過していました。

続いて1983年3月、南大沢地区が「まちびらき」を迎えます。南大沢は多摩ニュータウン西部の「西部地区センター」として位置づけられ、この後の開発の中心になっていきました。さらに1990年3月には別所一丁目地区で入居が始まり、由木地区一帯の市街化はおよそ20年をかけて広がっていきました。一つの村がまるごと生まれ変わるには、それだけの歳月が必要だったということでもあります。


南大沢が街の顔になった日 —— 駅・大学・商業施設の集積

南大沢が「西部地区センター」としての存在感を持つようになったのは、1980年代末から1990年代初頭にかけての都市機能整備によるところが大きいといえます。まちびらきから数年のうちに、南大沢は次々と新しい役割を与えられていきました。

昭和63年(1988年)5月21日、京王堀之内駅が開業しました。同じ時期に京王相模原線が南大沢駅まで延伸し、由木地区は都心とつながる鉄道網を初めて手に入れます。かつて谷戸の道を歩いて移動していた住民にとって、駅の開業は暮らしの距離感そのものを変える出来事だったはずです。続く平成3年(1991年)には東京都立大学(現・東京都立大学)が南大沢キャンパスへ移転し、平成4年(1992年)には複合ビル「パオレ」と商業ビル「ガレリア・ユギ」が相次いで竣工しました。

駅、大学、商業施設という都市の三要素がほぼ同時期にそろったことで、南大沢は単なる住宅団地ではなく、生活が完結する街の顔になっていきます。学生が行き交い、買い物客が集まり、電車で都心へ通う人が駅に列をなす——由木村の時代には存在しなかった日常が、この数年間でまとめて根づいたのです。令和5年(2023年)時点で、南大沢駅の1日あたり乗降客数は53,000人を超え、京王相模原線沿線でも上位の利用者数を記録しています。谷戸に水田が広がっていた頃からは、想像もつかない数字です。


40年後の課題 —— 老いる団地と八王子市の処方箋

もっとも早く入居が始まった鹿島・松が谷地区は、すでにまちびらきから50年近くが経過しています。多摩ニュータウン全体で見ても、入居開始から40年以上が経ち、人口減少・少子高齢化・住宅団地の老朽化という課題が表面化してきました。かつて「新しい街」の象徴だった団地群は、今や「歳月を重ねた街」に変わりつつあります。

2018年1月1日時点のデータでは、多摩ニュータウン関連地域の高齢化率は19.4%で、市内平均(26.1%)よりはまだ低い水準にあります。ただし、鹿島・松が谷など入居時期が早かった地域では高齢化率が30%を超えており、地域間の世代の偏りは決して小さくありません。同じ「多摩ニュータウン」という名前の中に、まちびらき直後の若い街と、住民とともに老いていく街が同居しているのです。1976年に最初の入居者を迎えた鹿島・松が谷と、1990年代以降に整備が進んだ地区とでは、住民の年齢構成そのものが違う景色を描いています。

こうした課題に対応するため、八王子市は平成31年(2019年)3月に「八王子市多摩ニュータウンまちづくり方針」を策定しました。策定にあたっては地域住民や大学生を交えた懇談会・ワークショップが開かれ、基礎編・課題分析編・戦略編・実行編という構成で今後の方向性がまとめられています。かつて合併の是非をめぐり村を二分する議論が交わされたこの土地で、今度は世代を超えた住民と学生が同じテーブルを囲み、街の次の姿を話し合っている——そのこと自体が、由木の60年を象徴しているのかもしれません。


まとめ

由木村が地図から消えた1964年から、多摩ニュータウンの計画決定、鹿島・松が谷や南大沢のまちびらきを経て、現在の高齢化という課題まで——由木地区の60年は、東京郊外の団地がたどってきた歴史そのものです。合併をめぐる激しい対立も、丘陵を切り開いた大規模開発も、駅と大学が街を変えた瞬間も、今の街並みからは静かに見えなくなっています。谷戸に水田が広がっていた記憶は薄れつつありますが、南大沢の駅前を歩くとき、その足元にかつての由木村があったことを、少しだけ思い出してみてもよいかもしれません。


参考文献

多摩ニュータウン|八王子市公式ホームページ / 合併50年目が交流の原点に|公園文化WEB 花みどりミニ検定 / 東京五輪の頃、1つの村が八王子へ 由木エリアの今と昔|タウンニュース / 南大沢開発の歴史|多摩ニュータウン開発センター / 多摩ニュータウンまちづくり方針の策定について|八王子市公式ホームページ

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。