小仏関所と甲州道中 —— 江戸の西を守った武蔵国境の関所
八王子市裏高尾町の小仏峠に置かれた小仏関は、甲州道中でもっとも堅固と評された江戸の西の守りだった。戦国期の起源から江戸時代の厳格な運営、明治の廃止、そして昭和20年にこの地で起きた列車銃撃事件まで、国境の関所が見てきた歴史を追う。

この記事の目次
八王子市裏高尾町、JR高尾駅から車で数分の山あいに、小さな公園がある。ここにあったのが、甲州道中でもっとも堅固と評された関所――小仏関である。江戸時代には「入鉄砲出女」を厳しく取り締まった国境の関所は、明治の廃止を経て静かな史跡となったが、昭和20年にはこの同じ土地が、思いがけない形で戦争の惨禍の舞台にもなった。関所の始まりから終わり、そしてその先に刻まれた記憶までを追う。
小仏峠という国境 —— 甲州道中最大の難所
小仏関跡は、東京都八王子市裏高尾町419番地他にある。すぐ近くにそびえる小仏峠は標高548メートル、八王子市裏高尾町と神奈川県相模原市緑区の境にあたり、多摩川水系と相模川水系を分ける分水嶺でもある。
江戸時代、甲州道中は江戸と甲府を結ぶ主要街道の一つだった。小仏峠はその道中で、武蔵国と相模国の国境――現在の東京都と神奈川県の境にあたる場所であり、江戸の西を守る上で欠かせない要衝だった。関所そのものは、峠の頂上ではなく、後に触れる移転を経て、峠の東側にあたる駒木野(現在の裏高尾町、JR高尾駅の近く)に置かれていた。
甲州道中のうち高尾から相模湖方面までの約12キロメートルの区間は、街道随一の難所としても知られていた。峠を越えるという地理的な険しさと、国境を守るという政治的な役割が、同じ一点に重なっていたのが小仏峠だった。江戸から甲府へ向かう旅人にとっても、甲府から江戸へ入る旅人にとっても、この峠を越える手前で足を止めさせられる場所が、ほかでもない小仏関だったのである。
戦国から徳川へ —— 関所の起源と移設
小仏関の起源は、戦国時代の天正年間(1573年〜1592年)に、この地を治めていた北条氏照が小仏峠の頂上に築いたと伝わる。八王子城主として武蔵国西部を治めた氏照にとって、甲斐の武田氏に備える国境の守りは重要な課題であり、小仏峠はその最前線の一つだったと考えられる。なお、別の史料整理では永禄4年(1561年)時点ですでに関所の存在を示す記述があるとの情報もあり、いつ頃から国境の関所として機能していたかについては、伝え方に幅がある。
その後、天正18年(1590年)に小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東を治めることになると、家康の命により関所は峠の頂上から東側の駒木野へと移設・整備された。移設後の関所は正式には「駒木野関所」とも呼ばれたが、地元では従来どおり「小仏関」の通称で呼ばれ続けた。
当時の絵図によれば、関所の敷地には東西に門が設けられ、敷地北側には番所が置かれていた。周辺には竹矢来が組まれ、川底を深くするなど、通行を規制するための工夫が随所に施されていたという。戦国の砦のような関所は、こうして徳川の世の国境警備施設へと姿を変えていった。
入鉄砲出女を取り締まる —— 江戸時代の関所運営
江戸時代の小仏関は、甲州道中の中でもっとも堅固と評された関所だった。関所番は当初、八王子千人同心や関東十八代官の手代が交代で務めていたが、寛永18年(1641年)以降は川村・佐藤・小野崎・落合の4家が世襲で務めることに定まり、警備は概ね4人体制で行われた。世襲の番士家が固定されたことで、通行人の見極めや取り締まりの実務は、代を重ねるごとに一家一家の中に蓄積されていったと考えられる。通行が許されたのは「明け六つから暮れ六つまで」、つまり日中のみだった。
小仏関でも、他の関所と同様に「入鉄砲出女」――江戸に入る鉄砲と、江戸から出る女性――が厳しく取り締まりの対象とされた。記録によれば、女性が江戸方向へ入る際は無検査で通れたが、江戸から出る女性には関所役人の証文(手形)が必要だった。通行人は「手形石」と呼ばれる自然石の上に通行手形を置き、「手付石」と呼ばれるもう一つの自然石に手をついて検分を待ったとされる。
この二つの石は今も現地に残り、当時の緊張した往来の様子を伝えている。関所を破った者への罰は磔(はりつけ)と定められていた。国境を越えるという行為に、これほど重い意味が課せられていた時代があったことを、二つの石は静かに物語っている。旅人にとって、手形石の上に手形を置く一瞬は、単なる手続きではなく、国境という目に見えない線を越えるための儀礼のようなものでもあっただろう。
八王子宿・千人同心とともに守る江戸の西の玄関口
小仏関は、単独で存在していたわけではない。甲州道中における八王子近辺の中心は八王子宿であり、徳川氏の代官頭・大久保長安が、北条氏照の城下町だった横山・八日市・八幡の三宿を再編し、現在の中心市街地にあたる八王子宿を整備した。1650年代までには、甲州街道沿いに新町・横山宿・八日市宿・本宿・八幡宿など計15の宿からなる「八王子十五宿(八王子横山十五宿)」が形成されていた。
八王子宿の西方、現在の千人町には、武田氏の旧臣らを中心に組織された八王子千人同心が置かれた。千人同心は当初、甲州との国境警備や、八王子城落城後の地域の治安回復にあたり、のちには日光東照宮の火の番(日光勤番)を幕末まで公務として担うことになる。
小仏関所は、こうした八王子宿と千人同心が守る甲州道中の西の玄関口として、江戸を守る防衛線の一角を構成していた。峠の関所一つを見ても、その背後には八王子という城下町全体の防衛体制があったことがわかる。旅人が小仏峠で足止めされる背後には、八王子宿から千人同心、そして小仏関へと連なる、幾重もの守りの仕組みが控えていたのである。江戸から見れば、八王子は甲州口を守る最前線の城下町であり、小仏関はさらにその先に置かれた、最後の関門だった。
明治の関所廃止、そして国の史跡へ
江戸時代を通じて機能してきた小仏関だったが、明治2年(1869年)、太政官布告により全国の関所が廃止されると、小仏関も例外なく建物が取り壊された。人と鉄砲、そして女性の通行を管理してきた関所という仕組みそのものが、この国から姿を消した瞬間でもあった。
その後、甲州街道(現在の国道20号)のルートは、勾配の急な小仏峠越えから、より緩やかな大垂水峠経由へと切り替えられていく。国境を守る施設としての役割を終えた小仏峠一帯は、街道の主要ルートとしての位置づけも徐々に譲り渡すことになった。
かつての関所跡は、その後、昭和3年(1928年)1月18日に国の史跡に指定された。現在は小さな公園として整備され、手形石・手付石の自然石が今も残る。周辺は梅の名所としても知られ、ハイキング客に親しまれている。
小仏峠の旧道自体は、現在は東京都道516号浅川相模湖線として一部区間が残り、往時をしのぶハイキングコースとして歩くことができる。関所としての役目を終えた土地が、史跡として、また行楽の場として第二の姿を得た形である。旅人の往来を厳しく管理した場所が、時代を経て誰もが自由に歩けるハイキングコースに変わったことは、この峠がたどった歴史そのものを象徴しているといえるだろう。
昭和20年、いのはなトンネルに刻まれた記憶
明治の廃止から70年余りを経た昭和20年(1945年)8月5日、この裏高尾の地は、まったく異なる歴史の舞台になった。正午過ぎ、新宿発長野行きの419列車が、浅川駅(現在の高尾駅)を出発した直後、裏高尾町のいのはな(猪鼻)トンネル付近でアメリカ軍のP-51戦闘機による機銃掃射を受けたのである。機関車と客車1両半がトンネルに入った時点で列車は停止したが、トンネル外に残った客車は繰り返し銃撃を受けた。
乗客の多くは長野・山梨方面への疎開者を含む一般市民で、兵士は19名のみだったとされる。犠牲者数は資料によって幅があり、即死40名以上とする記録や、その後の死者を含め60名以上とする記録など一致していないが、少なくとも52名以上が犠牲になったとされる。負傷者は133名とする記録が複数ある。
この事件のわずか3日前、8月2日未明には八王子大空襲があり、市街地の8割が焼失していた。中央本線が復旧し8月5日に全通した、まさにその直後の惨事だった。
昭和25年(1950年)、地元青年団の手により、日影沢の石を使って荼毘に付した犠牲者の供養塔が建立された。昭和59年(1984年)には「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足し、平成4年(1992年)3月、八王子南ロータリークラブの協力を得て正式な慰霊碑が完成した。
慰霊碑には当初44名の身元判明者の名が刻まれていたが、2025年1月、新たに身元が判明した4名分が33年ぶりに追加され、判明した犠牲者は計48名以上となった。毎年8月5日には、現地で慰霊祭が開かれている。国境を守った関所の跡地から目と鼻の先で、80年前、平和になったはずの戦争末期の日常が突然断ち切られた。その記憶は、今も現地の慰霊碑によって語り継がれている。
まとめ
小仏峠に置かれた関所は、戦国期に北条氏照が築いたと伝わる砦のような施設から、徳川家康の移設・整備を経て、江戸時代には「入鉄砲出女」を厳しく取り締まる甲州道中随一の堅固な関所へと姿を変えた。明治2年の廃止後は静かな史跡となり、昭和3年には国の史跡指定を受けている。だが昭和20年、その目と鼻の先で起きたいのはなトンネル列車銃撃事件は、この土地が江戸の防衛線としてだけでなく、近代の戦争の惨禍をも記憶する場所であることを示している。
手形石・手付石という二つの自然石と、裏高尾に立つ慰霊碑。時代の異なる二つの記憶が同じ峠のふもとに残っていることを、機会があれば現地で確かめてみてほしい。江戸の国境警備と、昭和の戦争被害。一見つながりのない二つの出来事が同じ土地に刻まれていることこそが、小仏峠という場所の歴史の厚みを物語っている。
参考文献
八王子市ホームページ「小仏関跡」 / 高尾山麓 小仏関所の歴史をたどる~高尾通信 / 風のタイムトリップ《第70回》梅の花咲き渡る 甲州道中、武蔵国境の関所跡 / みちびと紀行~甲州街道を往く(高尾~小仏) / 八王子市ホームページ「其の五 八王子宿と千人同心」「八王子千人同心の歴史」 / 号外NET八王子市「8月5日は裏高尾町のいのはなトンネル列車銃撃事件75年目の慰霊の日」 / タウンニュース「湯の花トンネル列車銃撃空襲 慰霊碑に4人追刻 身元判明を機に33年ぶり」
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