廿里古戦場 —— 武田信玄侵攻の前哨戦と、八王子城築城の起点をめぐる伝承
JR高尾駅近くの市指定旧跡「廿里古戦場」。永禄12年の武田信玄侵攻をめぐる合戦の経過と、そこに語られる『敗戦が八王子城を生んだ』という伝承の史実性を検証します。

この記事の目次
JR高尾駅から高尾街道を北へ歩いて5分。案内板が一枚立つだけの静かな坂道に、かつて武田信玄の大軍と北条方が刃を交えた戦場があります。この忘れられた古戦場には「ここでの敗戦が、名城・八王子城を生んだ」という語り継がれた物語がありますが、その因果関係は本当に史実なのでしょうか。指定文化財としての来歴から、地名の謎、そして伝承の検証まで辿ります。
連載「桑都の風土記」第8回|高尾山の修験道
高尾駅前に眠る戦場 —— 廿里古戦場という市指定文化財
東京都八王子市廿里町(とどりまち)。JR高尾駅の北側に広がるこの町域は、現在では国立研究開発法人森林研究・整備機構「森林総合研究所 多摩森林科学園」と、武蔵陵墓地(多摩御陵)の一部が大部分を占める、桜の保存林で知られる静かな一帯です。
この場所に、八王子市公式ホームページの「八王子市指定史跡・旧跡」一覧に掲載される22件の指定文化財の一つ、「廿里古戦場」があります。指定の経緯は一段階ではありません。まず昭和31年(1956年)7月28日に「市指定史跡」として指定され、その後平成16年(2004年)10月8日に種別が「市指定旧跡」へと変更されました。史跡から旧跡への種別変更の具体的な理由は、八王子市公式ページの本文には明記がなく、今回の調査でも一次資料での確認には至りませんでした。
現地を訪れた探訪記ブログによれば、そこに石碑はなく「看板が立つだけ」だといいます。合戦地の中心とされる崖上一帯は、現在は多摩森林科学園の施設用地となっており、往時の戦場を物語る地形的な痕跡はすでに失われています。八王子市公式ページの解説文は、合戦地を「現在の多摩御陵周辺から多摩森林科学園周辺と考えられる」と記すにとどまり、正確な地点の特定すら曖昧なまま、この戦場は450年以上の時を静かに眠り続けています。
永禄十二年、武田信玄の南下と滝山城包囲戦
物語は永禄12年(1569年)にさかのぼります。甲斐国の武田信玄は、相模国小田原城の北条氏康・氏政を攻めるため、碓氷峠を越えて北関東の北条方諸城を次々に攻略しながら南下していました。信玄は拝島(現・昭島市)に本陣を布き、北条氏照の当時の居城である滝山城(八王子市丹木町)への攻撃態勢を整えます。
このとき武田方が選んだのは、正面からの力攻めだけではありませんでした。岩殿城主・小山田信茂率いる約1,000(史料により表記に幅はあるものの、複数の探訪記・城郭サイトが一致してこの数字を挙げています)の別働隊が、本道を避けて小仏峠を越える間道からひそかに侵入したのです。
これを迎え撃つべく、滝山城主・北条氏照は横地監物(よこじけんもつ)・中山勘解由(なかやまかげゆ)・布施出羽守(ふせでわのかみ)ら家臣に約2,000の兵を率いさせ、廿里の地で武田方を迎撃させました。永禄12年10月1日(旧暦)、両軍は廿里で交戦します。しかし現地解説板・探訪記が記すところによれば、北条方は小山田隊の奇襲策により「一戦にしてもろくも敗れ去った」といいます。この敗走の結果、武田方はさらに滝山城へ迫り、翌10月2日には城の三の丸まで攻め込まれる事態となりました。
それでも、滝山城は落城を免れます。武田信玄がそのまま小田原方面へ矛先を転じたため、本丸・二の丸への攻撃を受ける前に、城は危機を脱したとされています。廿里での一敗が、そのまま桑都の歴史を塗り替える大事には至らなかった——それが、この日の結末でした。
廿里砦の謎 —— 白山神社に眠る、遺構未確認の陣地跡
迎撃した北条方が、丸腰でこの地に臨んだわけではありません。城郭史サイトの記述によれば、横地監物らは廿里山(別名・戸取山、鳥取山とも表記されます)の峰に急造の陣地「廿里砦(とどりとりで)」を築いて、麓に迫る武田方を迎え撃ったといいます。
現在、廿里山でもっとも高い峰は白山神社の神域となっており、この場所が廿里砦の跡地に比定されています。神社の静かな境内が、かつて兵たちが土を掻き上げて陣を構えた場所だったかもしれない——そう考えると、参道を歩く足取りも変わってきそうです。ただし、発掘調査などによる遺構の確認については、今回参照した資料の範囲では言及がなく、廿里砦が考古学的にどこまで裏付けられているかは、まだ確かめられていません。
周辺には初沢城跡(八王子市初沢町)も所在しており、高尾駅周辺一帯が中世には複数の小規模な城砦によって防衛線を形成していたことがうかがえます。廿里砦は、その防衛線を構成する一点だったと考えられます。
「とどり」という地名 —— 確定しない由来をめぐる三つの説
もう一つ、この土地には解けない謎が残されています。「廿里」——数字の「二十」を意味するこの漢字を、なぜ「とどり」と読むのか。この難読地名の由来については、複数の説が並び立ち、いまだ確定していません。
一つは、下長房村(現在の八王子市長房町周辺)にあった小字・小名「十十里(とどり)」に由来するというもの。この地名は他に「鳥取」とも表記されたことがあるとされます。もう一つは距離に由来するという説で、京都からの距離が百里(約400km)であったことを中国式に「十十里」と書き表し、それが転じて「廿里」になったとする見方や、鎌倉からの距離が20里であったことに由来するとの説もあります。
しかし、いずれの説を紹介する記事も「定かではない」「諸説あり、はっきりとはしない」と結んでおり、地名由来を確定づける郷土史・地誌の一次資料は、今回の調査では特定できませんでした。廿里砦の実態と同じように、この土地の名前もまた、確かな答えを持たないまま今日まで受け継がれています。
「敗戦が城を生んだ」——広く語られる伝承と、城郭史研究が示す別の真実
廿里古戦場を紹介するブログ記事の多くは、ある一つの物語を語り継いでいます。「この敗戦を機に北条氏照は小仏峠方面の防衛の重要性、そして滝山城の限界を痛感し、より要害性の高い八王子城の築城を決意した」——忘れられた古戦場という一地点の物語に厚みを与える、広く流布したこの解釈です。
しかし、この因果関係を学術的に検証した記事(JBpress掲載)は、この説を明確に否定しています。根拠として同記事が挙げるのは、滝山城が永禄12年(1569年)の攻防のあとも城として使われ続け、天正10年(1582年)頃には大規模な改修が施されているという事実です。その改修の直後に武田氏は滅亡し、徳川家康との同盟によって甲斐・相模の国境は安定していました。竣工したばかりの城をあえて放棄し、新たな城へ移る動機は乏しかったというのです。
同記事によれば、北条氏照が滝山城から八王子城へ本拠を移した時期は、天正15年(1587年)前後と見るのが妥当だといいます。根拠は、同年3月の文書に「狩野宗円が八王子に在城」と記されて以降、氏照関連の文書に「八王子」の地名が頻出するようになる点です。つまり、永禄12年の敗戦から実に18年もの歳月が経ってからの移転だったことになります。
その真因についても、同記事は「永禄12年の武田信玄来攻への対応」ではなく、天正14年(1586年)頃から悪化した豊臣政権との関係を見据えた、領国全体の動員体制構築にあったと論じています。北条家中の強硬派であった氏照が、甲斐方面から豊臣勢が侵入した場合に備える要塞として、限られた兵力で敵の攻撃を防ぐうえで原理上有利な山城——すなわち八王子城を選択したという解釈です。
一般に流布する「合戦の記憶がそのまま築城の理由になった」という物語的な因果関係と、城郭史研究が示す「約18年後、豊臣政権との緊張を背景にした戦略的な本拠移転」という史実の間には、大きな時間差と動機の違いがあります。廿里の合戦そのものは複数の資料が一致して伝える史実である一方、「この一敗が八王子城を生んだ」という語りは、史実というより、後世に育まれた伝承として味わうべきものなのかもしれません。
まとめ
廿里古戦場は、案内板一枚が立つだけの静かな坂道でありながら、永禄12年の武田信玄侵攻という桑都の歴史における重大な局面を今に伝える場所です。合戦の経過、廿里砦の存在、そして「とどり」という地名の謎——確かめられることと、確かめきれないことが入り混じるこの場所は、歴史がいつも明快な答えを用意してくれるわけではないことを教えてくれます。そして「敗戦が名城を生んだ」という物語は、史実そのものよりも、桑都の人々がこの土地の記憶をどう語り継いできたかを映す鏡なのかもしれません。
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連載「桑都の風土記」は、八王子の地形・史跡・風土にまつわる場所を一つずつ辿るシリーズです。
参考文献
八王子市公式ホームページ「八王子市指定史跡・旧跡」「廿里古戦場」 / 筑後守の航海日誌「廿里古戦場(武田・北条軍激戦の地)」 / 武蔵と相模の史蹟探訪記「廿里古戦場史跡(東京都八王子市)探訪記」 / 古城盛衰記1「廿里砦」 / kanji.reader.bz「難読地名『廿里』の読み方・由来」 / JBpress「北条氏照はなぜ、滝山城から八王子城に本拠を移したか?戦略から読み解く『本拠の移転』」
この記事は連載「桑都の風土記」第1話です
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