本文へスキップ
あと7分 購読

桑都の人 · 公開: 2026.08.14 · 7分で読めます

北条氏照 —— 滝山城・八王子城、二つの城を懸けた男の生涯

後北条氏三代当主・氏康の三男として大石氏を継いだ北条氏照は、武田信玄の大軍を滝山城で退け、より険しい八王子城へと本拠を移す。だが天正18年の小田原征伐で城はわずか1日で落ち、氏照自身は小田原で最期を迎えた。二つの城に生きた武将の生涯と、今も八王子に遺る供養塔の由来を追う。

日本庭園の苔むした石燈籠

永禄12年(1569年)、武田信玄率いる2万の大軍が滝山城に迫ったとき、城を守っていたのはわずか2千の兵だった。指揮を執ったのは、20代の若き城主・北条氏照(ほうじょう うじてる)である。この籠城戦を乗り越えた氏照は、やがてより険しい山に新たな城を築き、多摩地域一帯を治める大名として存在感を強めていく。だが二つの城を渡り歩いたその生涯の終着点で、氏照を待っていたものは何だったのか——滝山城から八王子城へ、そして八王子の地に遺された供養塔まで、その足跡を辿る。

連載「桑都人物誌」第11回この連載をまとめて読む


大石氏の養子となった十代の若者

北条氏照は、小田原を本拠とする後北条氏三代当主・北条氏康の三男として生まれた。福生市郷土資料室と八王子市公式ホームページの双方がこの出自を伝えている。生年には天文9年(1540年)・10年(1541年)・11年(1542年)の3説があり、現時点では確定していない。

転機が訪れたのは天文15年(1546年)である。父・氏康が河越合戦で関東管領・上杉憲政を破り、武蔵国一帯への支配を強めていた時期にあたる。この年、氏照は武蔵守護代であり滝山城主でもあった大石定久の養子となり、大石家の家督を継いで「大石源三氏照」を名乗った。以後、氏照は大石氏の本拠であった滝山城(現・八王子市丹木町)を足場に、多摩地域における北条氏の勢力拡大を担っていくことになる。

永禄2年(1559年)、20歳の頃に大石定久の娘・比左(ひさ)を娶り、正式に大石氏の家督を譲られたとする資料もある。養子入りの時期と婚姻・家督継承の時期については資料によって記述の重心が異なり、いずれにせよ氏照は10代から20代にかけて、生家の北条家ではなく養子先の大石家の当主として、滝山城とその周辺の統治に当たる立場になっていった。


わずか2千で武田信玄を退けた籠城戦

氏照が城主としての実力を初めて世に示したのは、永禄12年(1569年)のことである。甲斐の武田信玄が北条領国へ侵攻し、後に三増峠の戦いへとつながる一連の軍事行動の中で、滝山城にも矛先が向けられた。押し寄せた武田勢はおよそ2万、対する北条方はわずか2千程度と伝えられ、兵力差は歴然としていた。

この絶望的な状況の中、氏照は城を捨てなかった。三の丸までは陥落を許したものの、氏照自らが二の丸で指揮を執り、力戦の末に落城を免れたと、滝山城築城500年記念事業のサイトと福生市郷土資料室はともに記している。この籠城戦の経験は、後の氏照の判断——より堅固な城への本拠移転——に直結していくことになる。

軍事拠点としてだけでなく、氏照は滝山城主として周辺地域の統治にも関わっていた。永禄4年(1561年)には、福生の地の安全を保証する制札(禁制)を発給した記録も残っており、単なる砦ではなく地域を束ねる拠点として機能していたことがうかがえる。合戦での武功だけでなく外交手腕にも優れ、織田信長・徳川家康ら他国大名との交渉役を担ったとする記述もあり、軍事一辺倒ではない統治者としての一面がうかがえる。

後北条氏全体としては、武蔵国世田谷新宿や相模国荻野新宿などで座を設けず自由な商取引を認める楽市を布告した記録が残っており、市場を将来の伝馬役負担地として位置づける政策の一環だったとされる。これらの発給は当主・氏政名義が中心で、氏照領内への直接適用を示す一次史料までは確認されていないが、氏照が仕えた後北条氏が軍事だけでなく商業政策にも力を入れていたことを示す記録として位置づけられる。


より険しい山へ —— 八王子城への本拠移転

滝山城での籠城戦から十数年後、氏照は本拠をさらに険しい山へと移す決断を下す。JBpressの記事によれば、永禄12年の籠城戦で滝山城が攻められた経験を踏まえ、より堅固な城として新たに築いたのが八王子城だったとされる。移転の時期は資料によって幅があるが、天正10年(1582年)頃から築城に着手し、天正15年(1587年)頃までに拠点を移したとする記述が、滝山城築城500年記念事業と福生市郷土資料室の双方で一致している。

新たな城は、後北条氏の支城の中でも最大規模とされ、山頂の要害部(本丸・松木曲輪など)と山麓の居館部(御主殿)から構成された。御主殿跡では平成2年(1990年)の発掘調査で通路などの遺構が復元され、平成4〜5年(1992〜93年)にはさらに詳細な調査が行われている。

この調査では、ベネチア製とみられるレースガラス器や、国内出土例として貴重な輸入陶磁器が1,300点以上確認されており、日本遺産ポータルサイト・文化庁もこの遺構群を紹介している。築城からわずか10年に満たずに落城したため、遺構の年代を絞り込みやすい資料としても学術的価値が高いとされる。


天正18年、一日で落ちた城

しかし、氏照が新天地に築いた城は長くは続かなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、氏照自身は小田原城に籠城し、八王子城の守備は城代・横地監物ら家臣に委ねられた。攻城側は上杉景勝・前田利家・真田昌幸らからなる混成軍で、東と北の二手に分かれて奇襲をかけたとされる。

戦国ヒストリーの記事によれば、守備側は氏照の正室・側室、幼い子どもたち、避難してきた領民を含め約3千人だったが、八王子城はわずか1日で陥落したという。八王子城落城の報せは、小田原城にいた氏照のもとにも届き、北条方の士気に大きな影響を与えたと伝えられている。

そして同年7月11日(西暦1590年8月10日)、小田原開城の後、氏照は兄・氏政とともに切腹を命じられた。これにより、氏康・氏政・氏照と続いた後北条氏は事実上滅亡することになる。


「御主殿の滝」伝説と、史実性に疑問を呈する声

八王子城落城には、もう一つ広く語り継がれている話がある。落城の際、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で次々と身を投じたという「御主殿の滝」の伝説である。この戦いで城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村ではその水で米を炊くと赤く染まったと伝えられ、これが先祖供養に小豆粥(あかまんま)を炊く風習の由来ともされている。攻城団など複数の観光・郷土サイトが、この伝承を紹介している。

一方で、この伝説の史実性に疑問を呈する指摘もある。JBpressの記事は、籠城戦において女性——多くは家臣の妻女で人質的な立場にあった——は通常、敵の攻撃を最初に受け止める前衛陣地ではなく、山上の本丸など城の中心部に置かれるべき立場だったはずだと指摘する。前衛陣地である御主殿に女性が滞在していたこと自体が構造的に不自然だという論拠から、同記事はこの伝説を「ありえない伝説」と評している。

伝承としての文化的定着——あかまんまの風習など——は事実として語り継がれているが、実際に何人が身を投げたかといった具体的な史実性については、確認できていない。


家臣が遺した供養塔 —— 元禄2年の宗関寺

氏照本人は小田原で最期を迎えたが、八王子の地には彼を偲ぶ場所が今も残っている。八王子城落城時の家臣・中山家範の子孫——孫にあたる中山信治、のちの水戸藩付家老——が、氏照の百回忌にあたる元禄2年(1689年)、氏照の供養塔を宗関寺(八王子市元八王子町、横地堤大木戸跡)に建立した。現在この供養塔は「北条氏照及び家臣墓」として東京都指定旧跡(昭和30年=1955年3月28日指定)となっており、両脇には中山家範・信治の墓が配されている。

同じ百回忌の際に鋳造・寄進された釣鐘は「宗関寺銅造梵鐘」として八王子市指定有形文化財となり、現存している。ただし、氏照本人と兄・氏政の実際の墓所——遺骸を葬った場所——は、切腹の地である小田原に別途所在し、神奈川県小田原市の市指定史跡となっている。宗関寺にあるのはあくまで家臣が建立した供養塔であり、実際の墓所とは区別される点に注意が必要である。

供養塔を建てた中山家範のほかにも、横地吉信・狩野泰光・間宮綱信・中山勘解由・狩野一庵・横地監物といった家臣の名が、八王子城を守った人々として伝わっている。城主自身は小田原で最期を迎えながら、彼に仕えた家臣とその子孫が八王子の地で供養を続けたという構図に、二つの城を懸けた武将の記憶がどのように受け継がれてきたかが表れている。

なお、氏照が拠点とした八王子城と、後に八王子の地に置かれた八王子千人同心とは、組織的な継承関係はない。千人同心の前身は武田氏滅亡後に徳川家康に召し抱えられた小人頭たちであり、氏照との接点は「同じ八王子の地」という地理的な共通点にとどまる。


まとめ

北条氏照は、大石氏の養子として滝山城主となり、武田信玄の大軍をわずか2千の兵で退けたのち、より険しい八王子城へと本拠を移した武将である。だが天正18年の小田原征伐で八王子城はわずか1日で落ち、氏照自身は小田原で兄・氏政とともに切腹し、後北条氏は事実上滅亡した。守り抜いた城と、守り切れなかった城——二つの城を懸けたその生涯の記憶は、元禄2年に家臣の子孫が建てた宗関寺の供養塔に、今も静かに刻まれている。


この連載の他の記事

連載「桑都人物誌」は、八王子を形づくった人物を一人ずつ辿るシリーズです。


参考文献

福生市郷土資料室「北条氏照-滝山・八王子城主-」 / 八王子市公式ホームページ「北条氏照 友垣絵巻」「北条氏照及び家臣墓」 / 滝山城築城500年記念事業「戦国時代と北条氏」 / JBpress「北条氏照はなぜ、滝山城から八王子城に本拠を移したか」「都内屈指の人気の山城『八王子城』は何が問題なのか」 / 日本遺産ポータルサイト・文化庁「八王子城跡」 / 戦国ヒストリー「北条氏照敗れる 陥落した八王子城の悲劇」 / 攻城団「御主殿の滝|八王子城のガイド」 / 小田原市「史跡・北条氏政・氏照の墓所」

この記事は連載「桑都人物誌」第1話です (全2話・更新中)

物価高対応子育て応援手当と桑都のまち応援給付金 —— 八王子市で並走する二つの物価高対策を整理する

暮らしと法律 · 8分

読む

Support

この記事が面白かったら、書き手の活動を応援していただけると励みになります。

※ Stripe決済(合同会社月香が運営)で安全にお支払いいただけます

カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。