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桑都の人 · 公開: 2026.08.19 · 7分で読めます

松本斗機蔵 —— 千人同心組頭が幕末に説いた海防論

八王子千人同心組頭・松本斗機蔵は、渡辺崋山ら開明派人脈と交わり、幕末の対外政策を論じた意見書『献芹微衷』を水戸藩主に献上しました。三十俵一人扶持の郷士身分の男が、なぜ幕政の中枢に見識を届けられたのか。

伝統的な寺院の瓦屋根の意匠

三十俵一人扶持。八王子千人同心組頭の家禄は、旗本というより村の名主に近い規模でした。その郷士身分の一人が、幕末の対外政策をめぐる意見書を水戸藩主に献上し、渡辺崋山や高野長英といった開明派人脈と机を並べていたとしたら、どう思われるでしょうか。松本斗機蔵(まつもと・ときぞう)という人物の足跡を追うと、八王子の郷士がどうやって江戸の知識人ネットワークに加わり、何を幕政に届けようとしたのかが見えてきます。


千人同心組頭の家に生まれて — 塩野適斎から学んだ学問

松本斗機蔵は千葉氏の出身と伝えられ、八王子千人同心組頭・松本家の養子となりました。家禄は三十俵一人扶持。千人同心の中でも組頭は頭株にあたりますが、それでも旗本のような知行地を持つ身分ではありません。名は胤親(たねちか)といいます。

学問の出発点は、同じ千人同心組頭で「桑都日記」の著者として知られる塩野適斎(しおの てきさい)でした。松本は塩野に学んで漢学を修めています。塩野適斎は八王子千人同心の中でも学問への関心が特に強い人物で、私塾「塩野塾」を開き、頭・組頭の子弟に漢学を教えていました。松本斗機蔵もその教えを受けた一人です。

漢学の基礎を固めた松本は、その後さらに歩を進め、江戸・湯島の昌平坂学問所(昌平黌)にも学びました。千人同心では寛政の改革以降、頭や組頭の子弟が昌平坂学問所に学ぶ例が増えていた時期にあたります。八王子という郷里の私塾から、幕府直轄の最高学府へ。松本斗機蔵の学問形成は、この時代の千人同心が持っていた向学の気風の延長線上にありました。

同時代の千人同心組頭には、「桑都日記」の塩野適斎、「武蔵名勝図会」を著した植田孟縉(うえだ もうしん)、蝦夷地開拓を主導した原胤敦(はら たねあつ)、日光無血開城で知られる石坂弥次右衛門(いしざか やじえもん)など、文人・学者として名を残した人物が何人もいます。三十俵一人扶持という決して豊かではない身分の集団から、これだけの学者・文人が輩出されたこと自体が、千人同心という組織の特異な気風を物語っています。


千人同心という身分 — 半士半農の郷士が学者を輩出した理由

松本斗機蔵という一人の学者を理解するには、まず彼が属していた千人同心という組織の成り立ちを知る必要があります。

八王子千人同心は、天正18年(1590年)の徳川家康関東入国にともない編成されました。母体となったのは、甲斐武田氏の旧臣らを中心とする郷士身分の集団です。翌天正19年(1591年)には10名の千人頭・500名体制に増員され、文禄2年(1593年)には現在の千人町へ移転しました。慶長5年(1600年)頃には千人頭10名・同心1,000名という体制が完成し、以後この規模で幕末まで存続します。

千人頭は旗本格として知行地を与えられましたが、その下で実務を担う同心の待遇はまったく違いました。幕府からの手当支給のみで、村に居住しながら年貢も納める半士半農の身分だったのです。武士でありながら農民でもあるという、他の幕臣にはない二重の立場を生きていました。

主要な任務は、日光東照宮の火の番(慶安5年〈1652年〉から1868年まで続いた長期の交代勤務)と、甲州道中の警備、そして有事の軍役でした。日光への長期出張と、日常の警備という地味な任務の反復。華やかな出世コースとは無縁の勤めです。それでも彼らの多くは、勤務の合間に学問を積み、記録を残し、次代へ知を伝えようとしました。松本斗機蔵の学問への志向も、こうした千人同心の集団的な気風のなかで育まれたものと考えられます。


渡辺崋山、高野長英との出会い — 尚歯会が繋いだ開明派人脈

昌平坂学問所で学問を修めた松本斗機蔵は、やがて蘭学にも通じるようになります。ここで彼の人生は、八王子の郷士という枠を大きく超えていきます。

松本は蘭学者・渡辺崋山(わたなべ かざん)と親交を結びました。渡辺崋山は三河田原藩の家老でありながら、画家・蘭学者としても名高い人物です。さらに、蘭方医で蘭学者の高野長英(たかの ちょうえい)、伊豆韮山代官として西洋砲術の導入に取り組んだ江川英龍(えがわ ひでたつ)とも交流があったとされています。探検家の最上徳内(もがみ とくない)、地理学者の高橋景保(たかはし かげやす)、水戸藩士の藤田東湖(ふじた とうこ)とも接点を持っていました。当時の江戸で対外政策や西洋知識に関心を寄せていた「開明派」知識人の輪の中に、千人同心組頭という異色の経歴を持つ松本斗機蔵が加わっていたことになります。

その人脈が具体的な形をとったのが、天保9年(1838年)10月のことでした。渡辺崋山・高野長英らを中心とする蘭学者・洋学関係者の研究会「尚歯会(しょうしかい)」の会合に、松本斗機蔵も同席しています。この場で話題になったのが、アメリカ商船モリソン号の再来航をめぐる、幕府への答申案でした。

千人同心組頭が江戸の第一線の蘭学者たちと同じ会合に加わり、対外政策の情報を共有する立場にいたこと自体が、松本の学問と見識がどれほど評価されていたかを示しています。村に居住し年貢も納める半士半農の身分から、江戸の知識人ネットワークの一員へ。その距離を松本斗機蔵は学問によって埋めていました。


『献芹微衷』1837年 — 千人同心組頭が水戸藩主に説いた海防論

松本斗機蔵の見識が最もまとまった形で残っているのが、意見書『献芹微衷(けんきんびちゅう)』です。天保8年(1837年)末、松本はこの書を著し、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)に献上しました。

内容の骨子は、当時の対外情勢への強い危機感に貫かれています。ロシアの南下政策とイギリスの通商要求に対して、幕府の対応がこのままでよいのかという問いを投げかけ、西洋諸国に倣った大船の建造や大砲の製造など、軍備の近代化を説きました。さらに踏み込んで、鎖国政策の見直しと、ロシア・イギリスとの通商許可の検討にまで言及しています。

とりわけ注目すべきは、異国船打払令(無二念打払令)そのものへの批判です。松本は、この強硬な方針を無謀だと断じ、穏便な交渉によって衝突を回避すべきだと主張しました。あわせて、琉球を蝦夷地と並ぶ日本の「左右翼」と位置づけ、琉球近海の警備のため薩摩藩から年に2〜3度、西洋型船を出させて琉球国内の島々を巡視させ、西洋人の上陸を防ぐべきだとも提言しています。北の蝦夷地だけでなく、南の琉球にまで目を配った国防構想でした。

この『献芹微衷』は現在、琉球大学附属図書館の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」に資料として収蔵・公開されています。千人同心組頭という、幕政の中枢からは遠い立場の人物が著した意見書が、遠く離れた沖縄の図書館に一次資料として残されている。この事実だけでも、松本斗機蔵の構想が単なる思いつきではなく、後世に参照されるだけの内容を備えていたことがうかがえます。


モリソン号事件と蛮社の獄 — 開明派が処罰された時代の中で

松本斗機蔵が『献芹微衷』を著した天保8年(1837年)は、まさにモリソン号事件が起きた年でもありました。日本人漂流民の送還と通商交渉を目的に来航した米国商船モリソン号は、異国船打払令にもとづいて砲撃され、退去させられています。松本が幕府の対外方針に危機感を抱いた背景には、この事件が色濃く影を落としていたと見てよいでしょう。

そして天保10年(1839年)、蘭学者を弾圧する「蛮社の獄」が起こります。松本と交流のあった渡辺崋山や高野長英ら、尚歯会に関わった人物たちが処罰の対象となりました。開明的な知識を持ち、幕府の対外政策に異を唱えた者たちが、次々と厳しい処分を受けていった時代です。

松本斗機蔵自身がこの蛮社の獄で取り調べや処罰を受けたのかどうかは、今回参照した史料からは確認できていません。渡辺崋山らと同じ会合に同席し、同じ問題意識を共有していた松本が、なぜ処分を免れたのか、あるいはそもそも処分の対象にすらならなかったのか。千人同心組頭という幕臣の中でも周縁的な身分が、結果としてどう働いたのかは、はっきりとは分かっていません。開明派人脈の渦中にいながら、その先の運命は師や友とは異なる道をたどったことだけが確かです。


浦賀奉行への登用内定と急死 — 天保12年(1841年)

蛮社の獄の嵐が過ぎたのち、松本斗機蔵の見識はむしろ幕閣内で高く評価されていったようです。天保12年(1841年)、松本は幕府直参の要職である浦賀奉行への登用が内定したと伝えられています。

浦賀奉行は、来航する外国船への対応を担う、対外政策の最前線にあたる役職です。千人同心組頭という陪臣に近い身分から、この要職への登用が検討されたこと自体が異例でした。『献芹微衷』で示した対外情勢への見識が、机上の空論ではなく実務でも通用すると判断されたことの表れといえるでしょう。

しかし、その登用が実現することはありませんでした。赴任前の同年9月12日(西暦1841年10月26日)、松本斗機蔵は病のため死去します。享年については史料によって記録が分かれており、正確な年齢は定まっていません。千人同心組頭の家に生まれ、塩野適斎に学び、渡辺崋山ら開明派人脈と交わり、水戸藩主に海防論を献上し、幕府直参の要職に手が届きかけたところで、その生涯は幕を閉じました。


まとめ

松本斗機蔵の生涯を追うと、八王子千人同心という半士半農の郷士身分が、決して江戸の学問・政治から切り離された辺境の存在ではなかったことが分かります。塩野適斎の私塾から昌平坂学問所へ、そして渡辺崋山ら開明派人脈へと、松本は学問を通じて自らの居場所を広げていきました。三十俵一人扶持の家に生まれた一人の郷士が、幕末の対外政策論議に自らの見識を届けようとした軌跡は、千人同心という組織が持っていた向学の気風を、何より雄弁に物語っています。


参考文献

デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)/コトバンク「松本斗機蔵」 / 八王子市ホームページ「八王子千人同心の歴史」 / 琉球大学附属図書館「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」収録『献芹微衷』

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。