中山家範 —— 八王子城で散った家老と、水戸藩に続いた家系
北条氏照の家老・中山家範は、天正18年の八王子城落城で命を落としました。その最期は討死とも自刃とも伝わりますが、遺された二人の男児は徳川家康に見出され、一人は旗本、もう一人は水戸藩の付家老として、後に徳川光圀を世に送り出す家系を築きます。

この記事の目次
天正18年(1590年)、わずか1日で落ちた八王子城。その城で最後まで戦った家老の一人に、中山家範(なかやま いえのり)という武将がいました。落城のとき家範は命を落としますが、話はそこで終わりません。
遺された二人の男児は徳川家康に見出され、一人は旗本として、もう一人は水戸藩の重臣として道を分けて生き延びます。そして次男の家系は、のちに水戸黄門として知られる徳川光圀を世に送り出す役回りを担うことになります。城が落ちたその先で、何が受け継がれたのかを辿ります。
天正18年、八王子城に立てこもった約3,000人
中山家は、武蔵国の中世武士団「武蔵七党」の一つ、丹党(たんとう)の流れを汲む一族です。鎌倉時代、丹党の一族であった加治家季(かじいえすえ)の頃、現在の埼玉県飯能市中山地区に居住し、その地名から「中山」を名字としたと伝えられています。後に小田原北条氏に従属し、家範の代になって、滝山城・八王子城主であった北条氏照の重臣に取り立てられました。飯能市大字中山には現在も中山家範館跡が残り、周囲に推定幅4〜6メートル、深さ最大2メートルほどの空堀を巡らせていたことが確認されています。現在は宅地化が進み、空堀の一部のみが残っていますが、埼玉県指定の旧跡になっています。
八王子城は、その中山家範が仕えた北条氏照が築いた関東最大級の山城とされています。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐を起こしたとき、城主である氏照自身は小田原城の防衛にあたっていました。そのため八王子城の守りは、城代・横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)、そして中山家範、近藤出羽守綱秀(こんどうでわのかみつなひで)ら家老格の家臣たちに委ねられていました。
城内には武士だけでなく、周辺の領民も含めて約3,000人が籠城していたと伝えられています。城が万一の際の避難場所としても機能していたことがうかがえます。留守を預かる家老たちが城の指揮を執るという体制は、氏照が小田原に詰めていた間、八王子城が単独で持ちこたえなければならない状況にあったことを示しています。
これに対して豊臣方は、前田利家・上杉景勝を主力とする大軍で城を包囲しました。関東屈指の堅城とされた八王子城でしたが、攻防はわずか1日で決着します。城主不在という条件はあったにせよ、これほど短期間で落城した事実は、豊臣方の攻勢の激しさを物語っています。
家範の最期をめぐる、二つの伝承
落城の混乱の中で、中山家範がどのように最期を迎えたのかについては、参照できる資料の間で記述に相違があります。
一つは、家範が奮戦の末に討死したとする説です。もう一つは、家範が二人の男児と妻を自らの手にかけたのち、自身も自刃したとする説です。後者の伝承には続きがあり、豊臣秀吉がその忠節に深く感じ入り、家範の首級に「中山勘解由左衛門(なかやまかげゆざえもん)」と名札をつけさせ、小田原の北条氏のもとへ送らせたという逸話が伴います。
どちらの説が史実に近いのか、今回参照した資料の範囲では確定できません。ただし、二つの説のどちらであっても、「家範が八王子城で命を落とした」という一点、そして「その死後、家康が遺児を召し抱えた」という一点では記述が一致しています。壮絶な最期であったことは、複数の資料が共通して伝えるところです。
討死説と自刃説、どちらの言い伝えにも共通しているのは、家範が最後まで北条方として戦い抜いたという評価です。二次的な解説記事の間で細部の記述が分かれているのは、落城という混乱の中の出来事ゆえに、当時から複数の言い伝えが並行して伝わってきたためと考えられます。
家範の死にざまが後世まで語り継がれてきたのは、この後に続く一族の再興があったからこそとも言えます。城で散った家老の物語は、ここで終わりではありませんでした。
遺児・照守と信吉 —— 徳川家で分かれた道
家範の死後、二人の遺児は徳川家康に見出されます。天正18年(1590年)8月、長男・中山照守(なかやまてるもり、当時21歳)と次男・中山信吉(なかやまのぶよし、当時15歳。1577年生まれ)は、そろって家康の小姓として召し抱えられました。父を失った直後の兄弟が、旧敵であったはずの徳川家に迎え入れられたことになります。
二人はその後、対照的な道を歩みます。
長男の照守は、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる上田合戦(第二次上田合戦)で「上田七本槍」の一人に数えられる働きをしたと伝わります。以後も徳川家中で昇進を重ね、最終的に3,500石を知行する御旗奉行(将軍旗本の役職の一つ)を務めるまでになりました。
次男の信吉は、さらに大きな役回りを担うことになります。慶長14年(1609年)、家康の十一男・徳川頼房が常陸国に25万石(後の水戸藩)を与えられた際、信吉はその付家老(つけがろう)に任じられました。付家老とは、将軍家の子が新たに藩を立てる際、若い藩主を後見して藩政を実質的に取り仕切るために幕府から付けられる重臣の職です。
信吉は慶長15年(1610年)に水戸へ赴任し、若い頼房を支えて藩政の実務を担います。信吉は常陸国多賀郡松岡(現在の茨城県高萩市)を采地として与えられ、この地は後年、水戸藩に編入されました。中山家は以後、水戸藩の付家老として代々2万5千石を領し、幕末には独立した「松岡藩」として存続することになります。
旧主・北条家に代わって仕えることになった徳川家において、二人の兄弟がそれぞれ武の道と藩政の道で頭角を現したことは、戦国から泰平の世へと移り変わる時代の中で、武家が生き延びるためにいかに多様な道を選び得たかを物語っています。
八王子城の一家老の家系が、水戸藩という御三家の重臣の家柄へと転じた——この転換の大きさは、八王子で命を落とした家範自身には、想像もできなかったものだったかもしれません。
元禄2年、供養塔が語る主従の記憶
信吉が水戸藩で残した足跡は、政務だけにとどまりません。水戸藩2代藩主を誰にするかが定まっていなかったころ、頼房の子・光圀が6歳のとき、信吉を「おじじ」と呼んで盤上の打ち鮑(うちあわび)を差し出したという逸話が伝わっています。信吉はこの幼い光圀の豪胆さに将来性を見抜き、世子(跡継ぎ)に定めたとされます。寛永10年(1633年)、光圀は水戸藩2代藩主となりました。
後に「水戸黄門」として広く知られることになるこの人物の擁立に、八王子城で散った家老の息子が深く関わっていたことになります。信吉自身は寛永19年1月6日(1642年)、65歳で没したと伝えられています。高萩市は今も、この逸話とともに信吉を「郷土の先人」として教育委員会のページで紹介しています。
主従の記憶は、信吉の代だけでは終わりませんでした。八王子市元八王子町3丁目には、「北条氏照及び家臣墓」と呼ばれる史跡があります。中心に北条氏照の供養塔が置かれ、その両脇に中山家範と、家範の孫で水戸藩付家老を継いだ中山信治(なかやまのぶはる)の供養塔が並んでいます。この供養塔群は、北条氏照の百回忌にあたる元禄2年(1689年)に、信治らによって建立されたと伝わります。史跡としての指定は昭和3年に標識指定を受けたのが始まりで、昭和27年に史跡指定へと種別が変更され、昭和30年3月28日付で現行の指定内容に至ったとされています。
主君・氏照が世を去ってから100年後、その子孫でも家臣でもなく、かつて城で散った家老の孫が、主君と祖父を並べて弔いました。城は落ち、主君も家老も命を落としましたが、その主従の関係は約100年の時を超えて、子孫の手によって形として刻まれたことになります。
まとめ
天正18年の八王子城落城で、中山家範は城とともに命を落としました。その最期がどのようなものであったかは、今も二つの伝承の間で揺れています。しかし遺された二人の男児は、旧敵であった徳川家康のもとで新たな道を歩み、長男は旗本として、次男は水戸藩の重臣として、それぞれの形で家名を残しました。次男・信吉の家系はやがて水戸藩の中枢を担い、徳川光圀という後世に名を残す人物の擁立にも関わります。八王子で失われた一つの家が、遠く離れた水戸の地で新たな形をとって続いていった——その足跡は、元八王子町の供養塔に、今も静かに刻まれています。
中山家をめぐる物語は、飯能・八王子・高萩という三つの土地にまたがっています。丹党の一族として飯能に興り、八王子城で戦国の終わりを迎え、そして水戸藩の付家老として常陸の地に根を下ろす——一つの家系が辿った土地の広がりそのものが、戦国から江戸へと移り変わる時代の大きさを物語っています。
参考文献
八王子市ホームページ「八王子城跡」「北条氏照及び家臣墓」 / 高萩市教育委員会「中山信吉」 / 城郭放浪記「武蔵 中山家範館」 / 戦国武将列伝Ω「中山家範(中山勘解由家範)の子孫は水戸黄門を誕生させた立役者」
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