薬王院の龍を彫った男 —— 小松光重という名前だけが遺った理由
高尾山薬王院・大本堂の龍を彫ったと伝わる宮彫師「小松光重」。分かっているのはその名前だけです。江戸・明治・昭和と積み重なった薬王院の彫刻群を辿りながら、なぜ一人だけ名前が遺り、他の担い手たちは無名のままなのかを追います。

この記事の目次
高尾山薬王院の大本堂には、龍や虎、鷹、白象といった彫刻が随所に施されています。その中でも向拝の中備と左右の木鼻を飾る龍には、彫った人物の名前が伝わっています。「小松光重」。ところが、この名前の主について分かっていることは、驚くほど少ないのです。
生年も出身地も師匠の名も分からないまま、なぜ「彫った」という事実だけが今に伝わっているのでしょうか。同じ境内にある他の建物の彫刻と見比べてみると、その理由の輪郭が少しずつ見えてきます。
龍を彫った男、名前だけが伝わる
寺社彫刻を専門に記録するサイト「祭写楽」の「龍巡り(関東編)」には、高尾山薬王院のページに大本堂の龍彫刻についての記載があります。それによれば、向拝中備と左右の木鼻に施された龍は「小松光重」の作だとされています。
大本堂にはこの龍のほかにも、正面小壁の仙人と龍を組み合わせた意匠、福徳稲荷の中備・木鼻、大師堂の木鼻や額など、複数の彫刻が施されています。しかし同サイトが作者名を明記しているのは、この龍の彫刻だけです。ほかの部位については、彫刻そのものの存在は記録されていても、誰の手によるものかは書かれていません。
大本堂の彫刻は龍だけではありません。蛙股には麒麟、持送りには亀の意匠が施され、外周全体を「松に鷹」「龍虎」「白狐」「白象」といった縁起の良いモチーフが取り囲んでいます。彩色は一切施されておらず、素木のままの木肌に刻まれた陰影だけで、立体感と装飾効果を出す仕様になっています。
龍という図像そのものにも、意味があります。仏教美術において龍は「仏法とそれを信仰する人々を護る存在」として位置づけられており、インドに起源を持つこの意匠が中国を経て日本の寺院彫刻に定着したものとされています。数ある守護の意匠の中でも、向拝という参拝者が最初に目にする場所に配された龍を任されたのが、小松光重だったということになります。
なお「祭写楽」は寺社建築の彫刻を体系的に撮影・記録している専門サイトで、現地の解説板や寺院への取材をもとにしていると考えられますが、サイト上には一次資料(史料・棟札・寺院の公式記録)そのものへの言及はありません。作者名という情報の出どころが専門サイト一つに限られている以上、小松光重という名前は「確定した史実」というよりも「現時点で唯一伝わっている手がかり」として受け止めるのが正確でしょう。
つまり薬王院の数ある彫刻のうち、作者名という形で個人が特定されているのは、今のところこの龍だけということになります。この一点だけでも、小松光重という名前には特別な重みがあります。
明治19年の被災から34年の落成へ
この龍が施された大本堂そのものにも、波乱の歴史があります。地域の郷土史を綴る個人ブログによれば、1886年(明治19年)の台風によって境内で崖崩れが発生し、当時本堂として使われていた建物と薬師堂が被災・倒壊したと伝わります。
その後、新しい本堂の建立計画が進められ、1901年(明治34年)4月に現在の大本堂が落成しました。この再建は建物単体の新築にとどまりませんでした。大日如来を祀っていた大日堂は境内東端に移されて大師堂となり、護摩堂はより高い位置に移設されて奥之院不動堂となるなど、境内の伽藍配置全体を再編する大事業だったのです。
落成した大本堂は、仁王門の正面に位置する七間四面の建物で、間口は7間2尺、約13.07メートルにおよびます。屋根は銅板葺きの入母屋造りで、崖崩れという災害からわずか15年で、境内の中心にふさわしい規模の建物が再建されたことになります。
大本堂の建立時、工事を率いた棟梁は「小町若狭守小三郎源金道」という人物でした。薬王院の公式サイトでは「八王子大工棟梁 小町小三郎」とも紹介されています。正面に掲げられた「高尾山」の額は、幕末から明治期の皇族である小松宮彰仁親王の筆によるものとされ、棟梁の小町、額の筆者の小松宮、龍を彫った小松光重は、いずれも名に「小」の字を含みながらまったくの別人です。混同しないよう注意が必要でしょう。
こうして棟梁の名も、額を書いた皇族の名も記録に残る中で、龍を彫った職人の名前だけが、専門サイトの記述という細い糸でかろうじて今に伝わっています。
なぜ経歴が分からないのか —— 北関東宮彫師系譜に見当たらない名前
関東の寺社彫刻の世界には、比較的よく知られた系譜があります。江戸中期、群馬県花輪村(現在のみどり市)を拠点とした彫物師集団です。その祖とされる高松又八(?〜1716年)は公儀彫物師として江戸城の改修などに従事し、後藤家・小沢家・立川流(信州の立川和四郎を祖とする一派)など複数の系譜に分かれて、北関東一円の社寺彫刻を手がけたことが知られています。花輪村の彫物師集団は、一人の名匠が興した技術が弟子筋を通じて世代を超えて広がり、記録として体系的に残されてきた典型例といえます。
この北関東の主要な社寺彫刻を手がけた彫刻師たちの略歴をまとめた専門ブログには、飯田仙之助、石原吟八郎義武、磯辺儀左衛門、後藤市造藤原正國、嶋村圓哲、関口文治郎、立川音吉など、約40名の彫刻師名が収録されています。ところが、この一覧の中に「小松」姓の彫刻師は見当たりません。
広域で活動記録が残るような有力な彫物師集団に属していなかったとすれば、小松光重はより地域限定的に、八王子近辺だけで活動した彫工だった可能性が考えられます。もっとも、これは記録がないことからの消去法による推測にすぎず、断定はできません。彫工の系譜研究には「彫工左氏後藤氏世系図」(1824年、後藤茂右衛門による編纂、東京国立博物館所蔵)のような一級史料も存在しますが、小松光重がそうした系図に登場するかどうかも、今のところ確認できていないのです。
薬王院にはもう一つ、作者の名が伝承として語られる例があります。境内の仁王門は三間一戸の八脚門で、間口3.62メートル、奥行2.72メートル、一重・切妻造の銅板葺きで、建築様式から江戸前期(17世紀後半〜18世紀前半頃)の建立と推定されています。ここに安置される仁王像(金剛力士像)は、鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝えられています。
ただし、この運慶作という伝承を裏付ける同時代の史料は、今回の調査では確認できていません。運慶作と伝えられる仏像は全国に数多く存在し、そのうち真作と確認されているものが限られることは、仏教美術史でも広く指摘されている点です。小松光重の場合とは事情が異なりますが、著名な仏師の名であっても「伝わる」という一語の重みを慎重に扱う必要がある点では共通しているといえるでしょう。
記録に残らなかった担い手たち —— 江戸・明治・昭和の三時代
小松光重の名がかろうじて伝わっている一方で、薬王院には彫刻師の名前がまったく分からない建物もあります。薬王院の中核をなす飯縄権現堂は、大本堂よりずっと古く、1729年(享保14年)に本殿が造立されました。1753年(宝暦3年)に拝殿と幣殿が再建され、1805年(文化2年)の大改修で本殿と拝殿・幣殿の屋根が権現造の形式でつながれ、現在は東京都指定有形文化財(建造物)となっています。
この飯縄権現堂拝殿の向拝中備にも、火焔をまとった龍の彫刻があります。大本堂と同じく、松に鷹や龍虎、白狐、白象といった縁起の良いモチーフが随所に施されていますが、これらを手がけた彫刻師の個人名は、今回の調査では確認できませんでした。本殿が造立された1729年(享保14年)から大本堂の落成(1901年)までは172年の隔たりがあります。江戸中期という大本堂よりさらに古い時代の建物だけに、担い手の記録はより一層残りにくかったと考えられます。
対照的なのが、昭和に建てられた四天王門です。1984年(昭和59年)、弘法大師1150年御遠忌を記念する事業として建立されたこの門には、増長天・持国天・多聞天・広目天の四天王像が安置されています。その製作を担当したのは東京造形大学の大成浩氏で、東京藝術大学教授(当時)の西村公朝氏が監修したことが、はっきりと記録されています。これは伝統的な宮彫り職人の系譜ではなく、近代の彫刻家・大学関係者による造像であるという点で、飯縄権現堂や大本堂の彫工たちとは性格の異なる記録の残り方です。
江戸中期の飯縄権現堂では彫刻師の名がまったく残らず、明治の大本堂では小松光重という名前だけが伝わり、昭和の四天王門では大成浩・西村公朝という個人名が制作者として明確に記録される——同じ薬王院の境内にありながら、三つの時代の彫刻は、担い手の記録され方においてこれほど違うのです。
まとめ
薬王院の大本堂に施された龍を見上げるとき、そこには「小松光重」という名前だけが伝わり、その人物の生涯についてはほとんど何も分かっていません。北関東の宮彫師の系譜をたどっても、その名前は見つかりませんでした。一方で、同じ境内の飯縄権現堂の彫刻師は名前すら残らず、仁王門の仁王像は運慶作という伝承だけが独り歩きし、昭和の四天王門では逆に製作者の氏名が明確に記録されています。
時代によって、誰の仕事が記録され、誰の仕事が記録されないのか——その差は、技量の優劣ではなく、記録という営みそのものの偶然によって決まってきたのかもしれません。棟梁の名、皇族の筆、専門サイトが拾い上げた一つの名前、そして大学関係者の肩書き。同じ境内に集まったこれらの記録の粒度の違いこそが、薬王院という場所が積み重ねてきた時間の厚みを物語っています。次に薬王院を訪れる機会があれば、彫刻の意匠だけでなく、その背後にある「記録の残り方」にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
参考文献
高尾山薬王院公式サイト「心を洗う山内めぐり」 / 祭写楽「龍巡り(関東編)」 / 高尾通信「高尾山で美しく歴史ある建造物に目を奪われる見どころ」 / 高尾山ナビ「四天王門」 / 探検コム「関東・彫物師たちの彫刻の旅」 / 北関東の装飾寺社を歩く「北関東の寺社等を手掛けた主な彫刻師の略歴」 / 悠星「高尾山ノスタルジア No.17:高尾山薬王院」(note)
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