石坂弥次右衛門と日光無血開城 —— 戦わずに守り、責めを負った最後の千人頭
幕末、八王子千人同心の千人頭・石坂弥次右衛門は、日光に迫る新政府軍に対し刀を交えず明け渡す道を選んだ。東照宮は戦火を免れたが、帰郷した石坂を待っていたのは同僚からの非難だった。その決断と最期、そして今に続く姉妹都市の縁を追う。

この記事の目次
八王子市千人町の興岳寺に、一人の武士の墓がある。石坂弥次右衛門義礼(いしざか やじろうえもん よしあや)。慶応4年(1868年)、日光を戦火から守るために刀を交えず明け渡す決断をし、帰郷したその夜に自ら命を絶った、八王子千人同心・最後の千人頭である。彼の決断は、なぜ「守った側」が「責められる」という結末を招いたのか。そしてその出来事は、いまも八王子と日光を結ぶ縁として続いている。
千人頭・石坂弥次右衛門とは何者か
千人町という地名は、かつてここに約1,000人の半士半農の武士団・八王子千人同心が暮らしていたことに由来する。彼らは平時は農作業をしながら、有事には甲州口の守りに就くという二つの顔を持つ集団だった。その千人同心の中でも、10名の千人頭は各100名の同心を束ねる立場にあった。石坂弥次右衛門義礼は、その千人頭の一人である。
JR西八王子駅の北側に広がる千人町という地名は、この物語の主役だった千人同心たちが暮らした土地の記憶を今に伝えている。
八王子千人同心は、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡した後、関東に入った徳川家康が武蔵国の西の入口に設けた組織である。甲斐武田氏の遺臣や北条氏の旧臣、多摩地域に縁のある武士・農民を集め、千人頭10名の下に各100名、計約1,000名を編成した。平時は八王子の追分町や千人町で田畑を耕し、有事には甲州口の警備に就く——武士でありながら農民でもある、半士半農という二つの顔を持つ集団だった。
八王子市公式ホームページ「八王子千人同心の歴史」によれば、石坂弥次右衛門義礼は、その10名の千人頭の一人として、慶応4年(1868年)に日光の火の番(日光勤番)を務めていた人物と記録されている。石坂家は千人頭を務めた家柄の一つで、武田家旧臣の系譜を引くとされる。
彼の墓は、菩提寺である興岳寺(八王子市千人町2-1-16)に今も残る。墓石には「慶應四辰年 源義禮之墓 閏四月十日」と刻まれ、通称の「弥次右衛門」とともに記されているという。日光市から贈られた香炉台が墓前に置かれていることも、この人物が単なる過去の武士ではなく、現在まで続く縁の起点であることを物語っている。
慶応4年、日光への着任 —— 216年続いた制度の最後の当番
石坂弥次右衛門が日光に赴任した慶応4年という年は、千人同心の日光勤番という制度そのものにとって、大きな節目の年だった。
千人同心の日光勤番は、慶安5年(1652年)に始まった。この年、三代将軍・徳川家光が没し、その遺骸が日光山に葬られた。祖父・家康を祀る東照宮に加え、家光を祀る大猷院(たいゆういん)が建立されたことで、日光山は幕府にとってますます重要な聖地となる。幕府はこの聖地の防火警備を八王子千人同心に命じ、これが「火の番」の始まりだった。
日光東照宮の防火警備を担うこの任務は、半年交代(春番・秋番)で引き継がれ、実に約216年間にわたって続いてきた。八王子から日光まで約140kmの道のりを、千人同心たちは代を重ねて往復し続けてきたのである。
石坂弥次右衛門が率いた勤番隊は約50名。この赴任は、結果として216年続いた制度が幕を閉じる直前、事実上最後の日光勤番となった。
折しもこの時期は戊辰戦争の最中だった。慶応4年(1868年)は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が本格化していた年であり、新政府軍(東征軍)は江戸を接収したのち、抵抗を続ける勢力を追って北関東・日光方面へと進軍を続けていた。石坂は、平時の防火警備という任務のまま、戦火が迫る局面に立たされることになる。
板垣退助の進軍と、刀を交えない決断
慶応4年閏4月、板垣退助が率いる新政府軍が、日光に迫った。
日光山内には、徳川家康を祀る東照宮と、三代将軍・家光を祀る大猷院という、徳川家にとって特別な聖地がある。旧幕府方の一部勢力がこの地に立てこもれば、日光全体が戦場となりかねない緊迫した状況だった。
八王子市公式ホームページは、この局面での石坂弥次右衛門の判断を「刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました」と記している。守るべき任務を、戦って果たすのではなく、明け渡すことで果たす——という選択である。
栃木県公式ホームページ「板垣退助と日光のかかわり」も、この経緯の大枠を裏づけている。同ページによれば、日光山内(二社一寺)を戦火にさらすことを避けるため、板垣退助が幕府側を説得し、無血開城という結末に至ったとされる。板垣にとっても、文化財としての日光山を戦火から守ることは重要な意味を持っていた。両者の思惑が、結果として「戦わない」という一点で交わったといえる。
郷土史を追う個人の探訪記の中には、石坂が日光山の門跡である輪王寺宮や山内首脳と協議のうえで明け渡しを決断したとする記述や、抵抗を主張して板垣退助への実力行使まで考えた同心たちを石坂が押しとどめた、という逸話を伝えるものもある。ただし、こうした協議の詳細や逸話の真偽を裏づける一次史料は、市・県の公式資料の範囲では今回確認できていない。確実に言えるのは、千人同心の日光勤番隊が新政府軍に抵抗せず日光を明け渡し、東照宮が戦火を免れたという史実そのものである。
帰郷後の非難と切腹 —— 決断の代償
日光を明け渡した後、石坂弥次右衛門は八王子へ帰路についた。閏4月10日、彼は八王子に帰り着く。
しかし、彼を待っていたのは労いの言葉ではなかった。八王子市公式ホームページは、帰郷後の状況を「責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます」と明記している。戦わずに任地を明け渡したことは、当時の武士的な価値観においては「主命を戦わず放棄した恥」と映り、同僚の同心たちから厳しい非難を浴びる結果となった。石坂は、日光と東照宮を守ったその判断の責任を、自らの命で引き受けたのである。
この出来事は、石坂一人の悲劇にとどまらない。日野市公式ホームページの広報紙「日野の歴史と民俗143号」によれば、慶応4年10月、最後の日光勤番士46名によって石灯籠が寄進された。この石灯籠の台座には、日野地域出身の同心として井上松五(日野宿北原)・土方勇太郎(新井村)・山口若吉(豊田村)の名が刻まれているという。現在、この石灯籠は石坂の墓がある興岳寺に置かれている。
日光勤番という約216年続いた制度が幕末に終わりを迎えた際、徳川方を離れ、新政府への出仕を選ばず、村に戻って農民として生きる道を選んだ同心が多かったことも記録されている。千人同心という組織そのものも、慶応4年の戊辰戦争を境に新政府軍へ帰順し、約280年にわたる歴史に幕を下ろした。石坂の切腹は、日光の任を最後に務めた者の悲劇であると同時に、半士半農という二つの顔を持ちながら生きてきた集団全体が、時代の転換点でそれぞれの身の振り方を迫られた、その象徴的な一場面でもあった。
姉妹都市に受け継がれた縁 —— 昭和49年の盟約とその後
石坂弥次右衛門の決断と最期から100年以上を経て、この出来事は思わぬ形で現在に受け継がれることになる。
八王子市公式ホームページによれば、千人同心が慶安5年(1652年)から続けた日光火の番の役務が縁となり、昭和49年(1974年)に八王子市(旧)と日光市(旧)が姉妹都市の盟約を結んだ。日光市が平成18年(2006年)に周辺町村と合併した後も、同年10月1日に新・日光市として盟約を結び直している。日光市公式ホームページ「八王子市と日光市の姉妹都市提携の背景」でも、千人同心が慶安5年から日光東照宮の防火・警備を務めたこと、戊辰戦争時に日光を戦場とせず無血で明け渡したことが、この姉妹都市関係の由来として説明されている。
そして令和6年(2024年)11月17日には、八王子市・苫小牧市・日光市の姉妹都市盟約50周年を記念するイベント「三都絆祭」が、東京たま未来メッセ等で開催された。苫小牧市もまた、千人同心・原半左衛門胤敦の蝦夷地開拓に由来する姉妹都市である。寛政12年(1800年)、千人頭・原胤敦の建議により、千人同心から100名が蝦夷地(北海道)の白糠・苫小牧付近へ派遣され開拓に従事したが、厳寒に阻まれ文化元年(1804年)にはわずか4年で撤退を余儀なくされている。日光と苫小牧という二つの姉妹都市関係は、時代も結末も異なりながら、いずれも同じ千人同心という一つの集団の足跡から生まれたものだ。
戦わずに明け渡し、その責任を自らの命で負った一人の千人頭の決断は、単なる悲劇として歴史に埋もれることなく、現在も続く都市間の縁として、興岳寺の墓所と石灯籠にその記憶を刻んでいる。
まとめ
石坂弥次右衛門義礼は、216年続いた千人同心の日光勤番の最後の当番者として、戦わずに日光を新政府軍へ明け渡し、東照宮を戦火から守った。しかしその判断は当時の武士的価値観の中で非難を招き、彼は帰郷した夜に自ら命を絶つことになる。守った者が責められるという皮肉な結末は、しかし歴史の中で忘れ去られることなく、昭和49年の八王子市・日光市の姉妹都市提携という形で今に受け継がれている。
千人町の興岳寺に立つ墓と、最後の日光勤番士46名が遺した石灯籠は、この一人の千人頭の決断と最期を、150年以上を経た今も静かに伝え続けている。八王子と日光、そして苫小牧という三つの都市を結ぶ縁の始まりに、この人物の存在があったことを、興岳寺を訪れる機会があれば思い出したい。
参考文献
八王子市公式ホームページ「八王子千人同心の歴史」 / 栃木県公式ホームページ「板垣退助と日光のかかわり」 / 日野市公式ホームページ「日野の歴史と民俗143号 最後の日光勤番士寄進の石灯籠」 / 日光市公式ホームページ「八王子市と日光市の姉妹都市提携の背景」
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