八王子城落城 —— 城下町の終焉と「桑都」の始まり
天正18年6月23日、前田利家・上杉景勝の軍勢によって八王子城は落城した。北条氏照が築いた関東最大級の山城の最期と、そこから「桑都」八王子が生まれるまでの転換を辿る。

この記事の目次
概要
天正18年(1590年)6月23日。前田利家・上杉景勝ら約1万5,000の軍勢が、八王子城に襲いかかりました。城主・北条氏照は小田原城に在陣中で、戻ることはできません。主力不在のまま迎えた戦いは半日で決着し、関東最大級の山城は炎に包まれました。
しかし、一つの城下町が消えたその先に、甲州街道沿いの新たな宿場町——のちに「桑都」と呼ばれることになる八王子が生まれます。終わりは始まりでもありました。
北条氏照と山城の築造
八王子城を語るには、まず城主・北条氏照(ほうじょう うじてる)に触れなければなりません。
氏照は、小田原北条氏三代当主・氏康の三男として生まれました。大石定久の娘を娶って大石氏の名跡を継ぎ、はじめ滝山城を本拠として多摩地域一帯を支配しています。関東各地で北条氏の外交・軍事の要として活躍した、一族の中でも際立って有能な武将でした。
天正15年(1587年)頃、氏照は本拠を滝山城から八王子城に移します。
移転の背景には、豊臣秀吉の関東征伐への備えがありました。天正10年(1582年)の本能寺の変以降、中央政権の圧力が関東に迫りつつある。平地の滝山城では、大軍による包囲戦に耐えられない。そこで氏照が選んだのが、深沢山(標高約445m)の山頂に本丸を、中腹に御主殿(ごしゅでん)と呼ばれる居館を、山麓に城下町を配した堅固な山城でした。
城域は東西約2.5km、南北約3km。中世の山城としては国内最大級の規模です。
しかし、この城にはひとつの弱点がありました。天正18年の戦いの時点で、八王子城はまだ未完成だったとされているのです。
ベネチアンガラスが語る国際人
八王子城の御主殿跡からは、興味深い出土品が見つかっています。
ベネチア産のレースガラスの破片。中国産の青磁や白磁。国産の天目茶碗。これらの出土品は、氏照が単なる戦国武将ではなかったことを物語っています。
16世紀後半のベネチアンガラスが東京都の山城から出土するという事実は、氏照の交易ネットワークが国際的な広がりを持っていたことを示しています。南蛮貿易やキリスト教宣教師との接点、あるいは堺や博多を経由した交易路。関東の山奥にいながら、当時の最先端の文化に触れていた知的好奇心の持ち主だったのかもしれません。
御主殿は、こうした文物を愛でる文化人としての氏照の一面が色濃く反映された空間だったと考えられます。
天正18年6月23日 — 半日の攻防
天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は約22万と号する大軍を率いて関東の北条方拠点を次々と攻略し始めます。小田原城を包囲する一方で、各地の支城にも別働隊を派遣しました。
八王子城に向かったのは、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らが率いる北国勢。兵力は約1万5,000人。
対する守備側は、城代・横地吉信(監物)をはじめとする約3,000人。ただし、この数には農民や婦女子が含まれていたとされます。肝心の氏照本人は小田原城に在陣中で、八王子城に戻ることはできませんでした。
6月23日の早朝、北国勢は搦手(からめて)——城の裏手から急襲をかけます。未完成の城を、主力不在の守備隊が守る。その結果は明白でした。
守備側は善戦したものの、圧倒的な兵力差の前に壊滅。戦闘は半日で決着し、八王子城は落城しました。
御主殿の滝付近では、多くの婦女子が身を投じたとの伝承が残っています。ただし、この伝承がどこまで史実を反映しているかは議論があり、後世の創作が混じっている可能性も指摘されています。
八王子城落城の報は、小田原城に籠る北条氏の士気を大きく低下させたといわれています。7月5日に小田原城は開城。7月11日、氏照は兄・氏政とともに切腹を命じられました。
城下町が消えた日
北条氏の滅亡とともに、八王子城の城下町は放棄されました。
戦国の城下町は、城主の権力と切り離しては存在できません。城が落ち、城主がいなくなれば、城下町もまた消え去る。八王子城の麓に営まれていた根小屋地区の城下町は、そのまま廃墟となっていきました。
現在、旧城下の一帯は「元八王子」の地名を残しています。「元」は「もと」。かつてここに八王子の中心があったことを、地名が静かに伝えています。
新しい八王子 — 甲州街道沿いの宿場町
しかし、八王子の歴史はここで終わりませんでした。
関東に入封した徳川家康は、甲州街道の整備を命じます。この事業を任されたのが、大久保長安(おおくぼ ながやす)でした。長安は、旧八王子城下から離れた平地に、まったく新しい宿場町を建設します。
十五の宿場から構成される「八王子十五宿」。横山宿、八日市宿、八幡宿をはじめとする宿場が甲州街道沿いに連なり、人口約6,000人の巨大な宿場町が形成されました。
そしてこの八王子宿で始まったのが、毎月4と8のつく日に開かれる「四八の市(しはちのいち)」です。周辺農村から集まった縞織物が取引され、「縞市(しまいち)」と呼ばれるほどの賑わいを見せるようになります。
山城の城下町から、甲州街道の宿場町へ。戦国の武の拠点から、江戸の商の拠点へ。八王子は、まったく異なる性格の街として生まれ変わったのです。
そしてこの宿場町こそが、養蚕と織物で栄え、やがて「桑都」と呼ばれることになる八王子の出発点でした。八王子城落城は、一つの時代の終わりであると同時に、「桑都」500年の歴史の始まりだったのです。
いま八王子城跡を歩く
現在、八王子城跡は国の史跡に指定されており、日本100名城にも選定されています。
御主殿跡は、発掘調査の成果を基に石垣と曳橋(ひきばし)が復元整備されています。曳橋を渡り、石段を登ると、かつて氏照が政務を執り、ベネチアンガラスの杯で酒を酌んだであろう空間に立つことができます。
御主殿の滝は、落城の伝承を今に伝える場所。静かに水が流れ落ちる小さな滝が、430年以上前の出来事を語り続けています。
本丸跡へは、御主殿跡から山頂へ約40分の登山。急な山道を登り切ると、八王子市街を一望できる眺望が広がります。この景色を、かつて氏照も見ていたのでしょう。
麓にはガイダンス施設(無料)が設置されており、八王子城の歴史と構造について学ぶことができます。JR高尾駅・京王高尾駅からバスで「霊園前・八王子城跡入口」下車。駐車場も完備されています。
まとめ
天正18年6月23日の半日の戦闘で、北条氏照が心血を注いだ関東最大級の山城は落ちました。ベネチアンガラスの破片が語る国際人としての横顔も、城下町の賑わいも、すべてが一日で潰えたのです。
しかし、八王子城の終焉は、「桑都」の始まりでもありました。山城の城下町は消え、代わりに甲州街道沿いに新たな宿場町が生まれ、縞市が開かれ、織物の集散地が形成され、やがて養蚕と絹で全国に名を知られる街へと発展していく。
落城から「桑都」へ。八王子の歴史はこの転換点を経て、500年の織物通史へとつながっていくのです。
参考文献
八王子市ホームページ「八王子城跡」 / 八王子城(Wikipedia) / 八王子市ホームページ「八王子の歴史と文化」 / 日本100名城ガイド
マンション管理の適正化 —— 高経年化する分譲マンションと八王子市の届出・認定制度
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