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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.08.10 · 7分で読めます

桑都を焼いた一夜 —— 八王子空襲と、そこから始まった都市計画

昭和20年8月2日未明、B-29約170機が八王子市街地を襲い、街の8割以上が2時間で焼け落ちた。なぜ八王子が狙われたのか、織物のまちはどう変わり、焼け跡からどのように現在の駅前が生まれたのかを一次資料で辿る。

織物の経糸と緯糸が交差する和モダンな幾何学文様

昭和20年(1945年)8月2日未明、約170機のB-29爆撃機が桑都・八王子の上空に現れた。わずか2時間の空襲で、街の8割以上が焼け野原になったという。織物の産地として栄えた市街地は、この夜を境に姿を失う。だが焼け跡は、そのまま放置されたわけではなかった。全国でも珍しい「特別都市計画法」の指定を受け、いまの駅前や桑並木通りへとつながる復興の歩みが始まっていく。


未明の170機 —— 昭和20年8月2日、桑都を襲った2時間

その夜、八王子の空はまだ暗かった。アメリカ軍のB-29爆撃機約170機が飛来し、市街地への攻撃を開始したのは日付が変わって間もない未明のことだったとされる。空襲は約2時間にわたって続いた。

総務省の記録によれば、この空襲で投下された焼夷弾は合計約1,600トンにのぼる。同じ年の3月10日に東京都心を襲った東京大空襲の投下総量が1,665トンとされることと比べても、匹敵するほどの密度で焼夷弾が短時間に集中したことになる。結果として市街地の8割以上が焼失し、被災した戸数は1万4,000戸以上に及んだ。

死者・負傷者の数については、資料によって幅がある。総務省の記録では死者396人、負傷者2,000人以上(うち重傷者494人)とされる。一方、国立国会図書館レファレンス協同データベースが紹介する八王子市立図書館の資料では「亡くなった方は400名とも500名ともいわれる」とも記されており、公的な記録の間でも一致していない。いずれにせよ、わずか2時間の空襲が、街の姿と数百人規模の命を同時に奪ったという事実そのものは動かない。


なぜ八王子が狙われたのか —— 疎開先と鉄道の要衝

なぜ、八王子がこれほど大規模な空襲の標的になったのか。八王子市公式ホームページの「はちおうじ平和サイト」は、その理由として二つの点を挙げている。ひとつは、市内外の工場労働者や、東京の大空襲から逃れてきた疎開者が街に集中していたこと。もうひとつは、八王子駅が東日本における鉄道交通の要衝であったことである。

背景には、周辺地域の軍需産業の集積もあった。隣接する浅川(現在の高尾)地域では、当時、中島飛行機の地下工場建設が進められていた。本土決戦に備えた軍関連施設や部隊の配置も、この周辺一帯に置かれていたという。

中島飛行機の主力工場——武蔵野の武蔵製作所、田無の中島航空金属、三鷹の中島飛行機研究所——は、前年の昭和19年(1944年)11月に東京が初めて空襲を受けて以来、繰り返し爆撃の対象となっていた。八王子への空襲は、この軍需産業集積地帯への攻撃が周辺一帯へ広がっていった延長線上に位置づけられる。

疎開者の受け皿としての役割か、鉄道の結節点としての価値か、それとも周辺軍需産業の一部としてか——資料によって強調される力点は異なり、単一の理由に単純化できるものではない。ただ、複数の条件が重なった街だったことは、いずれの記録にも共通している。


織物のまちへの打撃 —— 企業整備と空襲の二重の変質

八王子は「桑都」の名の通り、織物のまちとして栄えてきた。しかし、その産業基盤は空襲そのものよりも前に、すでに大きく変質させられていた。

戦時下では「企業整備」と呼ばれる、軍需生産を優先するための民需産業の統廃合が全国で進められていた。八王子でも多くの織物工場が、軍需品の下請け生産へと転換させられたり、疎開してきた軍需工場・軍需倉庫の受け入れ先に転用されたりした。織機の音が響いていた工場が、別の役割を担わされていった時期である。

そこへ、昭和20年8月2日の空襲が追い打ちをかけた。工場や住宅の焼失という直接の被害に加え、それ以前の企業整備の段階ですでに産業の姿が変えられていたことで、桑都の織物業は二重の意味で打撃を受けることになった。空襲だけを見ていては、この産業がどれほど深く傷ついたのかは分からない。

生産設備を軍需へ振り向けるという国全体の方針のもとで進められた企業整備は、工場という「場」だけでなく、そこで働く人や技術の配置そのものを組み替える動きでもあった。桑都の織物業が空襲後に再び動き出すためには、焼けた建物を建て直す以上に、いったん解体された生産の体制そのものを一から組み直す時間が必要だったことになる。


焼け跡からの復興 —— 特別都市計画法と駅前区画整理

市街地の8割以上を失った八王子だったが、その復興は全国的にも特別な枠組みのもとで進められることになる。昭和21年(1946年)、戦災復興のための「特別都市計画法」が制定され、全国115都市が指定を受けた。このとき、東京都区部(旧東京市の区域)以外で指定を受けたのは、八王子市ただ一市だけだった。空襲による被害の規模が、区部と並ぶ都市計画上の対応を要するほどだったと国に認められたことを、この指定は示している。

この指定を受けて、戦災復興土地区画整理事業が八王子駅の北口・南口、そして八日町以西の甲州街道周辺という3つの地区で実施された。駅前広場が整えられ、駅と甲州街道を結ぶ大通り——のちに「桑並木通り」の愛称で呼ばれることになる道——や、東西に延びる放射線道路も、この区画整理によって形づくられていった。

復興の歩みは、その後も続いていく。昭和27年(1952年)には国鉄八王子駅の新駅舎が完成した。そして昭和35年(1960年)、駅北口には「織物の八王子」と刻まれた高さ11メートルの「織物タワー」が建てられる。空襲で灰になった織物産地の、復興と再興への願いを象徴するモニュメントだった。

区画整理そのものは駅前広場だけにとどまらず、駅と甲州街道を結ぶ大通りや東西の放射線道路まで含めた、街の骨格全体を組み替える事業だった。平成元年(1989年)には、その駅前大通りに「桑並木通り」という愛称が正式に付けられた。焼け野原から数えて半世紀近くをかけて、いまの駅前の骨格が少しずつ積み上げられてきたことになる。


記憶をつなぐ —— 記録集・平和の像・非核平和都市宣言

空襲の記憶は、街の姿が変わったあとも、記録と誓いというかたちで受け継がれてきた。

昭和60年(1985年)3月、八王子市郷土資料館編・八王子市教育委員会発行による『八王子の空襲と戦災の記録』が刊行された。「総説編」633ページ、「市民の記録編」401ページ、さらに「資料編」を合わせた複数分冊からなる、市による公式の戦災記録集である。この記録集の存在自体が、街がこの一夜をどれだけ重く受け止めてきたかを物語っている。

市郷土資料館が所蔵する「八王子空襲焼け跡写真板」4点は、奈良文化財研究所が運営する全国文化財総覧にも地域の文化財として登録されている。空襲の記憶は、文章の記録集だけでなく、写真という形でも公的に保存されてきたことになる。

慰霊と誓いのかたちも積み重ねられていった。昭和50年(1975年)1月、JR・京王八王子駅南口に近い緑町に、戦災犠牲者を悼む「平和の像」が建立された。市内には、西南の役から大東亜戦争に至る殉国の英霊と戦災殉難者をともに祀る「八王子市戦没者慰霊塔」も設置されている。

そして八王子市は、昭和53年(1978年)12月21日に「世界連邦平和都市宣言」を、昭和57年(1982年)6月29日には「非核平和都市宣言」を行っている。非核平和都市宣言では「わが国は、世界唯一の核被爆国として、また、平和憲法の精神からも核兵器の廃絶と軍備縮小の推進に積極的な役割りを果たさなければならない」として、非核三原則の完全実施を願う旨が示された。空襲から30年、40年という時間を経てもなお、街がこの一夜を公式に語り継ぐ意思を持ち続けてきたことが、これらの宣言や施設の積み重ねからうかがえる。

こうした戦災資料や平和事業に関する情報は、現在も八王子市公式ホームページの「調べる_はちおうじ平和サイト」に集約されている。記録集や慰霊碑という形あるものだけでなく、誰もが確認できる公開情報として、空襲の記憶を伝え続ける仕組みが今日まで維持されてきたことになる。


まとめ

昭和20年8月2日未明のわずか2時間で、桑都・八王子は街の8割以上を失った。織物のまちとしての基盤も、空襲と戦時の企業整備という二重の力で大きく変質させられた。それでも街は、全国でも珍しい特別都市計画法の指定のもと、駅前の区画整理から織物タワーの建設まで、時間をかけて自らの姿を編み直していった。いま桑並木通りを歩くとき、その足元には焼け跡から立ち上がった歩みが積み重なっている。記録集や平和の像、そして二つの平和都市宣言は、その一夜を忘れないための街の意思そのものだといえるだろう。


参考文献

総務省「一般戦災死没者の追悼|八王子市における戦災の状況」 / 八王子市ホームページ「調べる_はちおうじ平和サイト」「八王子市非核平和都市宣言」「世界連邦平和都市宣言」 / 国立国会図書館レファレンス協同データベース「八王子空襲の被害について知りたい」 / このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)「戦後の復興と発展 ~ 八王子」 / 昭和館デジタルアーカイブ「八王子の空襲と戦災の記録」 / 全国文化財総覧(奈良文化財研究所)「八王子空襲焼け跡」

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。