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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.08.08 · 7分で読めます

八王子銘仙とモダン文化 —— 女学生を熱狂させた絹織物の光と影

大正〜昭和初期、全国の女学生を熱狂させた絹織物「銘仙」。男物中心だった八王子の産地が、なぜ婦人ものへ転換し、独自の「カピタン織り」で一時代を築き、そして姿を消していったのかを辿る。

和紙の繊維の質感を写した和モダンな抽象イラスト

大正時代、着物の街を歩く女学生の装いが、ある年を境に一斉に変わった。地味な縞や無地から、大胆な柄と鮮やかな色の絹織物へ。「銘仙」と呼ばれたその流行は、やがて全国で織られる着物の約半分を占めるまでに広がったという。男物の織物で知られていた八王子も、この波に乗り遅れまいと産地の姿を変えていった。婦人向け商品の研究に始まり、独自の技法を編み出し、一時代を築いたその歩みは、恐慌と戦争を経て静かに幕を閉じる。

連載「桑都の織物史」第10回この連載をまとめて読む

女学生を虜にした「銘仙」という大流行

銘仙は、経糸と緯糸をあらかじめ部分的に染めてから平織にする絣(かすり)技法の絹織物で、大胆な柄と鮮やかな色遣いを特徴とする普段着・おしゃれ着だった。高価な礼装用の着物とは違い、日常に着られる価格帯であったことも広まった理由のひとつとされている。

大正時代、この銘仙が女学生の通学着として採用されたことをきっかけに、若い女性の間で全国的な大流行となった。一時は、日本国内で生産される着物のおよそ半数を銘仙が占めていたとされるほどの熱狂ぶりだったという。

流行の背景には技術の進歩もあった。型紙で仮織りしたうえから文様を染め、それをほどいてから織り直す「模様銘仙」の技法が確立し、大胆な柄表現が可能になったこと。そして化学染料の輸入によって、それまでにない鮮やかな発色が実現したことである。

産地は伊勢崎・足利・秩父・八王子など、関東西部から北関東にかけて集中していた。八王子は、このいわゆる「銘仙5大産地」のひとつに数えられる存在だった。

なぜ女学生たちがこれほどまでに銘仙へ夢中になったのか。その一因として、明治期に学習院で当時の院長・乃木希典が女学生の通学着を銘仙程度と定めたことがきっかけになった、という言説がある。流行に敏感な女学生たちの間で、あえて「銘仙程度」という指定の中で個性を競い合うように広まっていったというのである。ただし、この逸話は複数の着物専門メディアで紹介されているものの、学習院側の一次史料での確認には至っておらず、あくまで伝承のひとつとして受け止めておきたい。


男物の産地が婦人ものへ舵を切る —— 「柄の会」という転換点

もっとも、八王子はもともと銘仙の産地として出発したわけではない。長らく袴地や八端など、男性向けの織物を主力としてきた産地だったからだ。

大正3年(1914年)、第一次世界大戦による戦時好景気を背景に、八王子でも電気動力による力織機の普及が進んだ。八王子市公式ホームページ掲載の年表によれば、翌大正4年(1915年)に「一部に婦人もの研究始まる」との記述がある。これが、男物中心だった産地が婦人向け製品に目を向け始めた最初の兆しだった。

とはいえ転換は一朝一夕には進まなかった。大正11年(1922年)当時、八王子産地はなお男子向け織物が主で、婦人向けはわずか全数量の14パーセントに過ぎなかったとされる。

この状況を変えたのが、大正13年(1924年)の「八王子織物柄の会」設立である。その設立趣意は「本会ハ婦人向織物ノ進歩発達ヲ計ルヲ以テ目的トス」というもので、新製品開発と販路拡大を明確な目標に掲げていた。同じ年にはネクタイの試作にも成功しており、これが後の一大産業へとつながっていく端緒にもなった。

流通面での近代化も並行して進んでいた。大正5年(1916年)には織物市が市場取引から店舗取引へと移行し、市日も火曜・金曜に変更されている。露天の市場でその場の値付けによって取引されていた織物が、店舗という固定の場所で計画的に商われるようになったことは、産地全体の生産・販売の見通しを立てやすくする変化でもあった。産地としての体制そのものが、婦人ものという新しい市場に向けて組み替えられていった時期だったといえる。


カピタン織りが生んだ「八王子銘仙」の黄金期

「柄の会」設立を機に、八王子織物は大きく開花していった。婦人向け銘仙生産の産地としての地位を、着実に確立していったのである。

その技法的な特徴は「カピタン織り」と呼ばれるものだった。ドビー織機を用いて、細かい格子状・碁盤目状の地紋を織り出す技法で、独特の高級感のある印象を生み出した。

「カピタン」という呼称は、長崎・出島に置かれたオランダ商館長、いわゆる阿蘭陀甲比丹(カピタン)に由来するとされている。八王子織物工業組合の年表には、昭和24年(1949年)に「着尺加比丹(カピタン)が好評を博す」との記述があり、少なくとも戦後の一時期には、カピタン銘仙が人気商品として記録に残るほどの存在だったことがわかる。

カピタン織りの技法そのものは、この後の銘仙生産の終息後も産地に受け継がれ、現在ではネクタイなど小物製造に生かされている。大正の転換から生まれた技術が、姿を変えながら今日まで命脈を保っているのは、興味深いところだ。

昭和4年(1929年)には、特産の正絹お召を「多摩結城」と称する動きもあったと業界団体側の年表に記録されている。結城紬という他産地の名品を引き合いに出してでも、自らの織物の品格を訴えたいという当時の産地の意気込みが伝わってくる記述である。

産地としての知名度を一気に押し上げた出来事として語られているのが、昭和3年(1928年)10月の出来事である。当時の人気雑誌『婦女界』とのコラボレーション企画「八王子文芸銘仙」が発表され、これを機に八王子は一躍、銘仙の産地として広く知られるようになった、とする記述が複数のサイトに見られる。もっとも、この企画の詳細な出典は個人・専門サイトの記述にとどまり、市史や業界団体史料による直接の確認はできていない。年号や企画名も含め、今後の裏付けが待たれる情報として扱っておくべきだろう。


恐慌と戦時統制、そして空襲 —— 銘仙の終わり

しかし、この黄金期は長くは続かなかった。昭和4年(1929年)の世界恐慌、いわゆる昭和恐慌により、織物産業の基盤であった養蚕・製糸業が相対的に衰退していく。生糸の代替として人造絹糸(人絹・レーヨン)織物が普及し始めたのも、この時期のことだった。

追い打ちをかけたのが戦時統制である。昭和14年(1939年)に原糸配給統制が実施されると、翌昭和15年(1940年)7月7日には「奢侈品等製造販売制限規則」、いわゆる七・七禁令が施行された。これにより、金銀糸などを用いた華美な銘仙類は取締りの対象となってしまう。

昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦で輸出は途絶し、昭和18年(1943年)頃には軍需産業への転換が進み、繊維工場数は戦前の約21パーセント、織機台数は約16パーセントにまで減少したとされる。華やかな柄を織り出していた機(はた)の多くが、この時期に姿を消していったことになる。そして昭和20年(1945年)8月2日、八王子は大規模な空襲に見舞われる。市街地の約9割が焼失し、残存していた織物設備の多くもまた、この被害を免れることはできなかった。

女学生たちを熱狂させた華やかな柄は、恐慌と統制、そして戦火のなかで、その居場所を静かに失っていったのである。


紋ウールとネクタイへ —— 戦後の産地の転身

戦後、八王子の織物産地は新しい道を模索していく。昭和22年(1947年)には戦災復興資金の導入によって産業の再建が進み、空襲で焼けた機を再び稼働させる基盤が整えられた。そうして迎えた昭和30年頃、戦後最大のヒット商品となる「紋ウール」が誕生し、昭和32年(1957年)には市場を席巻した。ウール織物の生産が主流になったことで、絹の銘仙生産は八王子ではほとんど行われなくなっていく。

一方で、大正13年に試作が始まったネクタイは、大正デモクラシー期の新分野として定着し、戦後になって本格的な産業として成長していった。1950年代後半(昭和30年代前半)には国内ネクタイ地生産のおよそ6割、昭和34年(1959年)にはおよそ7割を八王子産が占め、国内トップシェアの産地になったとする記述も複数見られる。ただし、この具体的な占有率を裏付ける一次的な統計は今回の調査では特定できておらず、産地としての存在感の大きさを示す目安として捉えておきたい。銘仙という婦人もの一本足の産業ではなく、複数の柱を持つ産地へと姿を変えていったのである。

そして昭和55年(1980年)、それまでの女物部会(柄の会・趣味の会・優美会)が統合される形で、「多摩織」が通商産業省(当時)から伝統的工芸品の指定を受けた。婦人ものへの転換に始まり、銘仙の隆盛と衰退を経て積み重ねられてきた技術と組織の歴史が、この指定というかたちで一つに結実したことになる。


まとめ

女学生の通学着から始まった全国的な流行は、八王子という男物中心の産地の姿さえ変えてしまうほどの力を持っていた。「柄の会」という組織的な転換、カピタン織りという独自の技法、そして恐慌と戦火による終焉。銘仙が辿った道のりは、決して平坦ではなかった。

わずか十数年の隆盛と、それに続く長い転身の歴史。銘仙そのものは市場から姿を消しても、その技術は紋ウールやネクタイ、そして多摩織へと形を変えながら、今日の八王子織物へと受け継がれている。派手やかな柄の着物を纏った大正の女学生たちの姿は、いま織られている一枚の布のどこかに、確かに息づいているのかもしれない。


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連載「桑都の織物史」は、八王子が「桑都」と呼ばれた所以となった織物産業の歩みを、多角的な視点から辿るシリーズです。


参考文献

昭和きもの愛好会「銘仙の歴史概説」 / 八王子市ホームページ「八王子織物の歴史」「織物のまち八王子」 / 八王子織物工業組合公式サイト「歴史・伝統」 / Cotani「『カピタン銘仙』〜八王子銘仙〜」

この記事は連載「桑都の織物史」第1話です (全3話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。