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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.07.19 · 8分で読めます

桑の木が消えた日 —— 養蚕衰退と八王子の都市化

「桑都」の名の由来である養蚕業は、なぜ八王子の風景から姿を消したのか。昭和恐慌、戦時統制、空襲、そして高度経済成長期の都市化という4つの波と、都内唯一の養蚕農家として残る長田養蚕の今を一次資料から追う。

みずみずしい緑の桑の葉

八王子はかつて、「桑都」と呼ばれるほど桑畑と養蚕農家が広がる街でした。ですが今、市内を歩いても桑の木を見かけることはほとんどありません。あれほど街の風景を覆っていた桑畑は、いつ、なぜ消えたのでしょうか。昭和恐慌、戦時統制、そして高度経済成長期の都市化という3つの波をたどりながら、都内で唯一残った養蚕農家の今の姿まで追ってみます。


桑都を支えた養蚕業の最盛期

江戸時代後期、八王子宿では毎月4と8のつく日に六斎市が開かれ、周辺農村から繭や生糸、織物が集まる流通拠点になっていました。甲州街道最大級の宿場町として整備された八王子は、養蚕と織物によって栄えた街だったのです。

明治に入ると、この流れはさらに加速します。1877年(明治10年)、萩原彦七が中野村(現・八王子市中野町)に「萩原製糸場」を創業しました。1893年(明治26年)には340釜という規模に達し、官営の富岡製糸場を上回るまでになったといいます。ただしこの萩原製糸場も、1900年(明治33年)の生糸恐慌で経営不振に陥り、1901年(明治34年)には片倉組(片倉財閥)に買収されています。

織物業でも組織化が進みました。1886年(明治19年)には仲買商により「八王子織物組合」が結成され、1887年(明治20年)には「八王子織物染色講習所」が新町に開設されています。1895年(明治28年)にこの講習所は私立八王子織染学校へと移行し、1899年(明治32年)には製造業者を含む「八王子織物同業組合」が設立されました。組合員は約3,900人に達したといいます。

1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発を機に力織機が急速に普及し、国内経済の好況を背景に八王子の織物業は拡大していきました。1917年(大正3年)、八王子は東京府で2番目の「市」として市制施行します。織物業の産業規模拡大が人口集積を後押しした結果と位置づけられており、桑都という呼び名がまさに実態を伴っていた時代でした。


昭和恐慌が繭価を暴落させた1929年

好況が一変したのは1929年(昭和4年)のことです。全国的に見れば、この年は養蚕農家にとって繭価も好況で、生産量・生産額ともにピークに達した年でした。ところが10月のニューヨーク株式市場大暴落を機に世界恐慌が発生し、日本の生糸輸出が全面的に依存していたアメリカの絹需要が急減します。

翌1930年(昭和5年)には日本国内でも「昭和恐慌」が起こり、繭価が大暴落します。人造絹糸(人絹)の急速な普及や、中国産・欧州産生糸との競合も重なり、日本産生糸の市場占有率は低下していきました。

この危機に対応するため、製糸家による「蚕糸業同業組合中央会」を中心に、全国規模での生糸の共同保管や操業短縮が実施されています。政府も資金援助や滞貨生糸の買い上げといった救済策を講じましたが、八王子の織物基盤である製糸業・養蚕業は、この昭和恐慌によって相対的に後退することになりました。


戦時統制と空襲による産業基盤の壊滅

昭和恐慌からの回復途上にあった養蚕・織物業を、さらに厳しい統制が襲います。1940年(昭和15年)、生糸配給統制が始まり、いわゆる「七・七禁令」(奢侈品等製造販売制限規則)が施行されました。絹織物を含む奢侈品の製造・販売が制限され、織物業は大きく縮小を余儀なくされます。

同年には織物同業組合法も廃止され、それまで業界を支えてきた同業組合が解散しました。戦時中は輸出が不可能となり、多くの工場が閉鎖され、力織機は金属供出のため軍需転換や廃棄の対象になっています。

そして1945年(昭和20年)8月2日未明、八王子空襲が街を襲いました。市街地の約90%が焦土と化し、残存していた織物工場もこの空襲で焼失します。桑都の産業基盤は、この時点で物理的にも壊滅的な打撃を受けたのでした。


高度経済成長と桑畑を飲み込んだ都市化

戦後、八王子の織物業は「ガチャ万」と呼ばれる好況期を一時的に迎えますが、長くは続きませんでした。1962年(昭和37年)、日本は生糸の輸入自由化に踏み切ります。既に主要な生糸輸入国となっていた国内の養蚕業にとって、これは新たな打撃でした。

政府は輸入一元化制度や養蚕振興資金など対策を講じました。東京都(三多摩地域)でも、高度経済成長による内需拡大を背景に1966年の日本蚕糸事業団法施行や各地の養蚕団地整備の取り組みがあり、1970年代にいったん生産のピークを迎える局面もあったとされます。1980年(昭和55年)には多摩織が国の伝統的工芸品に指定され、着物地としての技術は今も継承されています。

それでも1973年(昭和48年)の第一次オイルショック以降、繭価の暴落・農業人口の減少・化学繊維の急速な普及が重なり、養蚕業は全国的に急速な衰退局面に入っていきました。

八王子ではこの時期、もう一つの力が桑畑を消していきました。都市化です。市域では多摩ニュータウン開発(新住宅市街地開発事業・土地区画整理事業)が進み、由木地区をはじめとする丘陵地の農地・山林が住宅地へと転換されていきます。由木地区にあった養蚕農家では、「裏手の山にあった桑畑が宅地開発で失われた」ことが、経営継続を困難にした直接の要因になったという証言が取材記事で確認できます。

桑畑は一度宅地や道路に転用されると、蚕のための桑の葉を安定供給する土地としては事実上回復不可能です。水田転作などとは違う、養蚕業特有の衰退パターンでした。


消えた風景に残った長田養蚕十二代

そんな時代を生き延び、今も八王子市加住町で養蚕を続けている農家があります。「長田養蚕」です。東京都内で唯一現存する養蚕農家で、現在の母屋は1885年(明治18年)に建てられたものだといいます。8代目当主・長田五右衛門の代から養蚕業を営んできたと伝えられており、少なくとも明治期から続く家業であることがうかがえます。

現当主・長田誠一氏は1970年11月25日生まれ。12代目にあたります。父・泰一氏が1990年(平成2年)に54歳で急逝したため、当時高校を卒業したばかりだった誠一氏が19歳で家業を継ぐことになりました。祖父や母から養蚕の技術を一つずつ学びながら、家業を築き上げてきたそうです。

現在の長田養蚕では、春蚕(はるご)と晩秋蚕(ばんしゅうさん)の年2回、蚕を飼育しています。蚕は高原社という製糸関連事業者から卵の状態で取り寄せ、自ら稚蚕室で管理するといいます。収穫した繭は農協を通じて出荷するほか、「道の駅八王子滝山」で美容関連商品としても販売されています。

養蚕の時期以外はきゅうりやなす、トマトといった野菜栽培も行っており、専業ではなく複合経営で農地を維持してきました。単一の作物に頼らないこの経営スタイルが、価格変動の激しい養蚕業を続けるうえでの支えになっていると考えられます。長田氏は八王子市内の小学3年生の総合学習にも協力し、養蚕を学ぶ機会を提供しています。


都内養蚕業者数の推移と後継者確保の壁

長田養蚕がいかに稀な存在かは、数字を見ると分かります。都内の養蚕業者数は、全盛期の30軒程度から2014年時点で6軒にまで減少したとされています。そして現在、都内で養蚕を続けているのは長田養蚕ただ一軒です。

新規就農や後継者確保がなぜこれほど難しいのか。取材記事では4つの理由が挙げられています。桑畑用の広い土地の確保が困難であること、周辺での農薬使用が蚕に影響すること、養蚕道具の入手が難しくなっていること、そして繭の単価が低く採算を取りにくいことです。

いずれも一朝一夕には解決できない構造的な課題です。広い土地を必要とする点は、まさに宅地開発で桑畑を失ってきた歴史そのものと重なります。養蚕業は、産業としての採算性と、都市化する土地利用との間で、いわば板挟みの状態が今も続いていると言えそうです。

なお、全国的な養蚕農家戸数の統計は、参照する資料によって数値の食い違いが大きく、単純な比較が難しい分野でもあります。数字の一つひとつを鵜呑みにするより、「都内で残るのが一軒だけ」という現在地そのものが、衰退の規模を何より雄弁に物語っていると言えるでしょう。


桑都の記憶を継ぐ場所の今

桑都の記憶を今に伝えてきた施設にも、大きな変化が訪れています。「桑都日本遺産センター 八王子博物館」、愛称「はちはく」です。JR八王子駅南口直結のサザンスカイタワー八王子3階にあり、日本遺産「霊気満山 高尾山〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」の構成文化財として、養蚕農家で使われていた道具や蚕の展示、織物関連資料を紹介してきました。

その「はちはく」は、歴史・郷土ミュージアムへの移転準備のため、2026年(令和8年)3月31日をもって閉館しました。JR八王子駅直結という立地の良さもあり、観光客や市民が気軽に養蚕・織物の歴史に触れられる窓口として機能してきた施設です。桑都の記憶を伝える展示機能は、今後新設される歴史・郷土ミュージアムへ引き継がれる見通しです。

養蚕農家が姿を消し、それを伝える博物館も一時的に形を変える。桑都の記憶は今、静かな過渡期にあると言えるかもしれません。それでも長田養蚕が現役で蚕を飼い続け、地域の子どもたちに養蚕を伝えている限り、桑都の記憶は展示物としてだけでなく、生きた営みとして受け継がれ続けています。


まとめ

桑都八王子の養蚕業は、昭和恐慌、戦時統制と空襲、そして高度経済成長期の都市化という3つの波を経て、街の風景から姿を消していきました。桑畑は一度宅地に変わると二度と戻らない土地です。それでも八王子市加住町の長田養蚕は、今なお都内で唯一、蚕を飼い続けています。桑都という名前の由来を実感できる場所は、もうそこにしか残っていないのかもしれません。


参考文献

八王子市ホームページ「其の六 桑都八王子は織物のまち」「八王子織物の歴史」「八王子市多摩ニュータウンまちづくり方針(素案)」「桑都日本遺産センター 八王子博物館」 / このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)「『八王子織物』と製糸業の発展 ~ 八王子」 / アーバンライフメトロ「八王子になんと『養蚕農家』が1軒残っていた!」 / note(小野和哉)「東京唯一の養蚕農家 長田さんのむかし語り」 / Shopper News「桑都の未来へ紡ぐ!都内唯一の養蚕農家『八王子長田養蚕』」 / 八王子市学園都市文化ふれあい財団「八王子博物館(はちはく)(令和8年3月31日閉館予定)」

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。