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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.07.06 · 更新: 2026.07.17 · 8分で読めます

なぜ八王子は「桑都(そうと)」と呼ばれるのか —— 絹が紡いだ歴史と現在の姿

八王子が「桑都」と呼ばれた由来を、地形・養蚕・織物産業の歴史から解き明かす。西行法師の伝説、縞市の繁栄、絹の道と鑓水商人、そして現在の学園都市への変遷まで。

山々に囲まれた川沿いの日本の集落の夕景

概要

東京都の西部に位置する八王子市は、現在でこそ多くの学校が集まる学園都市として知られていますが、かつては「桑の都」を意味する「桑都(そうと)」の名で全国に知られていました。この呼び名は、養蚕や織物産業によって街が歩んできた、数百年にわたる繁栄の歴史を象徴するものです。本記事では、地形的な理由から始まった桑の栽培、戦国から江戸時代にかけての交易の発展、そして世界へと繋がった絹の道の歴史をひもとき、現在の八王子へと受け継がれた歩みをご紹介します。


「桑都」という呼び名の意味

八王子を語る上で欠かせない「桑都(そうと)」という美しい響き。この言葉は文字通り「桑の葉が生い茂る都」を意味しており、古くからこの地で養蚕や絹織物の生産が極めて盛んであったことに由来します。

この呼び名が人々の間に定着したきっかけとして、平安時代末期から鎌倉時代初期の有名な歌人である西行法師(さいぎょうほうし)が詠んだとされる、次のような古い短歌が伝わっています。

「浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く」

(※「富士の影清く」や「青嵐たつ」など、伝わる史料によっていくつかの表記揺れが存在します)

八王子の街を横断する浅川を渡ると、目の前には雪化粧をした富士山が美しくそびえ立ち、桑畑が広がる「桑の都」に青々とした風が吹き抜けていく ——。八王子の豊かな自然と、当時すでに始まっていた織物産業の気配を感じさせる歌です。

しかし、歴史的な調査によると、西行法師が生涯に残した公式の歌集(家集)の中にこの短歌は収録されていません。現在では、江戸時代後期に八王子の産業が飛躍的に発展し、織物取引の賑わいが絶頂に達した際、その繁栄を際立たせ、土地の格を高めるために、西行法師の伝説と結びつけられて作られた後世の創作(伝説)であると考えられています。

いずれにせよ、江戸時代の人々にとって八王子が「桑の都」と呼ばれるにふさわしい、きらびやかな織物の街であったことは間違いありません。この呼称は、地域の誇りとして深く愛され、後世へと語り継がれていきました。


養蚕と桑の栽培が盛んだった理由

では、なぜ八王子でこれほどまでに桑の栽培や養蚕(蚕を育てて繭をとる営み)が盛んになったのでしょうか。その背景には、この土地が持つ独特の「地形」と「地質」という、自然の偶然が深く関わっています。

八王子が位置する八王子盆地は、多摩川の水系である一級河川「浅川」や、その支流が山々から流れ下る過程で、長い年月をかけて土砂を堆積させて作った複合扇状地(せんじょうち)です。

この扇状地という地勢は、上流から運ばれてきた砂や小石(砂礫)が多く含まれるため、水はけが非常に良いという特徴を持っています。水はけが良すぎる土地は、水を長期間ためておく必要がある水田稲作には極めて不向きでした。つまり、主食である米を十分に作ることができない、農業にとっては厳しい土地柄だったのです。

そこで、当時の農家たちが生きるための手段として選んだのが、水はけが良く乾燥しやすい土地でもたくましく育つ「桑」の栽培でした。桑は地中深くへと根を伸ばす植物であり、水はけの良い砂礫質の地質に最適だったのです。

農家たちは畑で桑を育て、その葉を餌としてカイコ(蚕)を飼育する「養蚕業」を大切な副業として取り入れました。カイコが作った繭から糸を紡ぎ、それを織って衣類に仕上げることで、米の代わりに生活を支える貴重な現金収入を得る仕組みが作られたのです。自然の制約を乗り越えようとした人々の知恵が、八王子一帯に広大な桑畑を生み出し、「桑都」の土台を築き上げました。


織物の集散地としての八王子

八王子で生産された生糸や織物は、やがて単なる農家の副業を超え、地域を代表する一大産業へと成長していきます。この発展を決定づけたのが、戦国時代から江戸時代にかけての時の権力者たちによる都市整備と産業の保護でした。

戦国時代、関東の雄である北条氏の一族であった武将・北条氏照(ほうじょううじてる)は、現在の八王子周辺を支配する拠点として、まず滝山城(たきやまじょう)を築き、後にさらに強固な山城である八王子城(はちおうじじょう、1587年頃に本拠を移転)を建設しました。

氏照は単に城を構えただけでなく、城下町を整備し、そこで定期的に取引を行う「市(いち)」を開くことを推奨しました。この市が、周辺の農村から集まる生糸や織物の最初の公的な取引場所となり、北条氏の強い庇護のもとで流通の基礎が形作られました。これが、八王子が織物の集積地として機能し始める最初の契機となりました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって八王子城は落城し、北条氏は滅亡してしまいます。しかし、八王子の織物産業の命脈が途絶えることはありませんでした。

その後、徳川家康の家臣であり、優れた民政家・鉱山技術者であった大久保長安(おおくぼながやす)が甲州街道(甲州道中)の整備に着手します。長安は、かつての八王子城下から離れた平地に、新たな宿場町として「八王子宿」(横山宿や八日市宿など、計15の宿場からなる巨大な宿場町)を建設しました。

この八王子宿で開始されたのが、毎月4と8のつく日(4日、8日、14日、18日、24日、28日の月に6回)に定期的に開催される「四八の市(しはちのいち)」でした。

この市では、真綿から紡いだ糸を美しく染め上げ、格子模様や縦縞模様に織り出した「縞織物(八王子縞など)」が大量に取引されました。人々はこの市を親しみを込めて「縞市(しまいち)」と呼び、江戸をはじめとする関東一円から多くの商人や仲買人が押し寄せました。八王子はこうして、名実ともに生糸と織物の一大集散地へと発展していったのです。


横浜開港と絹の輸出

江戸時代を通じて国内有数の織物の街へと成長した八王子は、幕末から明治にかけて、日本と世界を結ぶ歴史的な大舞台へと躍り出ることになります。その契機となったのが、1859年(安政6年)の横浜港の開港でした。

開港に伴い、欧米諸国への最大の輸出品となったのが、日本の高品質な「生糸(絹糸)」でした。海外での絹に対する需要は凄まじく、日本各地の生産地で生糸の争奪戦が始まりました。

この時、八王子はその卓越した地理的条件から、多摩地域だけでなく、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)、上野(群馬県)といった周辺の主要な養蚕地から集められた生糸が一堂に会する、国内最大規模の「中継集散地」としての役割を担うことになりました。

八王子に集積された膨大な生糸は、横浜港へと運ばれる必要があります。そこで活用されたのが、八王子から南下し、町田を経由して横浜港へと至る約40km弱の道のりでした。当時は「浜街道」や「神奈川往還」と呼ばれていたこの山越えの街道は、後に日本の近代化を支えた道として「絹の道」と称されるようになります。

この「絹の道」を通じて、驚くほどの富を築いたのが、八王子南部の鑓水(やりみず)地区を本拠とした「鑓水商人(やりみずしょうにん)」と呼ばれる豪商たちでした。大塚兵衛や八木下要右衛門をはじめとする鑓水商人たちは、産地から買い集めた生糸を横浜の外国人商館へと直接持ち込み、大胆な交渉によって巨額の利益を得ました。

彼らの暮らしぶりは極めて豪華で、街道沿いには壮麗な邸宅が立ち並び、その繁栄は「江戸鑓水」や「鑓水銀座」と噂されるほどでした。八王子の「絹の道」は、まさに日本が近代国家へと脱皮するための外貨を獲得する、大動脈の役割を果たしていたのです。


桑都から現在の八王子へ

明治から大正、そして昭和へと時代が移り変わる中で、八王子の産業構造は大きな変革期を迎えます。

明治中期、輸入された合成染料の化学知識不足から、織物の色落ちによる信用失墜という危機が訪れましたが、1887年(明治20年)に日本初とされる「八王子織物染色講習所」を設立し、科学的な染色技術を確立することでこの危機を乗り越えました。大正時代に入ると、電気の普及に伴い、手動から「力織機(りきしょっき)」による機械化が進み、浅川の豊富な水力を利用した撚糸工場などが郊外の大和田町などに集積し、織物の一大工業都市へと姿を変えていきました。

しかし、1945年(昭和20年)8月2日の未明、八王子の街を悲劇が襲います。アメリカ軍による「八王子空襲」により、中心市街地の約80%から90%が焼失し、多くの織物工場や歴史的な街並みが一瞬にして灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

戦後、人々は焦土の中から立ち上がります。ネクタイ地やマフラー地などの生産を中心にいち早く復興を遂げ、1950年代の朝鮮戦争前後の時期には、織機を一度「ガチャ」と動かせば「万」円儲かるという意味の「ガチャ万(がちゃまん)」と呼ばれる空前の大好況期を迎えました。八王子の織物は再び全国シェアを誇るまでに蘇ったのです。

その後、1960年代以降になると、安価な海外製品の流入や化学繊維の普及、さらには後継者不足や高齢化といった社会的な変化が押し寄せ、織物産業は急速に縮小していきました。

これに対し、八王子市は新たな都市のあり方を模索します。1950年代後半以降、都心の過密を防ぐための工場制限法などの後押しもあり、広大な土地を求めて都心の有名大学のキャンパスや、先端技術を扱う製造業の工場が八王子の郊外へと次々と移転してきました。

こうして八王子は、かつての「織物の街(桑都)」から、現在では20以上の大学や専門学校が集い、約11万人の学生が生活する全国有数の「学園都市」、そして多摩地域を代表する「産業拠点」へと生まれ変わったのです。

かつての盛んな養蚕や織物の風景は姿を消しましたが、1980年(昭和55年)には伝統的技術が「多摩織(たまおり)」として国の伝統的工芸品に指定され、今なお職人たちの手によってその技術と美しさが守り続けられています。


まとめ

かつて「桑の都」と呼ばれた八王子の歴史は、単なる過去の遺産ではありません。水はけが良すぎて稲作に不向きだった土地を「桑の栽培」という強みに変えた農民たちの挑戦、街道を拓いて交易を盛んにした戦国・江戸の先達、そして生糸を世界へと届けて近代日本を支えた鑓水商人の精神。これらすべてが、現在の八王子の基底に流れる歴史の遺伝子です。

現在、八王子が誇る高度なものづくり企業の技術力や、若者が集まる活気ある学園都市としての基盤には、かつて「桑都」として人や技術、情報が行き交い、困難を乗り越えて発展してきた気風が息づいています。

浅川の流れや、かつての「絹の道」の石畳を歩くとき、そこにはかつて「桑の都」に吹いていた青嵐の風が、今も確かに通り抜けているのを感じることができるでしょう。


参考文献

八王子市ホームページ「八王子の歴史と文化」「日本遺産・桑都物語」 / 日本遺産「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」公式ポータルサイト / 塩野適斎 著『桑都日記』 / 八王子市鑓水「絹の道資料館」展示解説

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。