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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.07.06 · 更新: 2026.07.17 · 5分で読めます

桑都の養蚕 —— 蚕種製造と八王子の「種屋」たち

八王子が「桑都」と呼ばれた理由の根幹にあるのが養蚕業。桑の栽培から蚕の飼育、繭の収穫、そして蚕種(蚕の卵)を専門に製造した「種屋」の存在まで。織物の原点となった養蚕の仕組みと、その衰退を辿る。

概要

「桑都」という美しい異名は、八王子の街じゅうに桑畑が広がっていた時代の記憶です。養蚕——蚕(かいこ)を飼い、繭から絹糸を得る営みは、米が育ちにくいこの土地で人々が暮らしていくための知恵でした。その養蚕を支えたのが、良質な蚕の卵「蚕種(さんしゅ)」を専門に製造する「種屋(たねや)」と呼ばれる業者たちです。桑から繭へ、繭から糸へ、糸から織物へ。「桑都」の名の原点にある養蚕の仕組みと、その消えゆく風景を辿ります。


米が育たない土地の選択

八王子はなぜ「桑の都」になったのか。その答えは、足元の地面にあります。

八王子盆地は、浅川が長い年月をかけて土砂を運んで形成した複合扇状地です。砂礫(されき)を多く含むこの地質は水はけが極めて良く、水が地中にすぐ浸透してしまいます。水田稲作には、水を溜めておける粘土質の土壌が必要です。八王子の扇状地は、その条件を満たしていませんでした。

米が十分に作れない。これは農民にとって致命的な問題です。

そこで人々が見出したのが、この「水はけの良さ」をむしろ活かせる作物でした。桑です。桑は地中深くに根を張る植物で、乾燥した土壌でもたくましく育ちます。水はけの良い扇状地は、桑にとっては絶好の生育環境だったのです。

農民たちは桑を畑に植え、その葉で蚕を育て、繭から糸を紡いで現金収入を得る仕組みを作り上げました。これが八王子の養蚕業の出発点です。


蚕の一生 — 桑の葉から繭まで45日

養蚕とは、具体的にどのような営みなのでしょうか。蚕の一生は約45日。その短い生涯のすべてが、人の手によって管理されています。

卵から孵化へ

蚕の卵は「蚕種(さんしゅ)」と呼ばれ、薄い紙(蚕種紙)に産み付けられた状態で保管・流通します。適温(約25度前後)に保つことで孵化し、毛蚕(けご)と呼ばれる小さな幼虫が生まれます。

飼育(約25日間)

孵化した蚕は桑の葉を食べて育ちます。その食欲は旺盛で、養蚕農家は毎日大量の桑の葉を摘んでは蚕に与える作業を繰り返しました。蚕は成長の過程で4回の脱皮を経て、五齢幼虫になると糸を吐く準備が整います。

上蔟(じょうぞく)

糸を吐き始めた蚕を「蔟(まぶし)」と呼ばれる道具に移す作業です。蔟は藁や木で作った枠で、蚕がその中で繭を作ります。

繭の完成(約3日)

1頭の蚕は、約1,200〜1,500mもの長さの糸を吐いて繭を作ります。1個の繭からわずかこれだけの糸。1反の着物地を織るには、約2,600個もの繭が必要だといわれています。

繭は収穫後に乾燥させ、蛹(さなぎ)を殺して保存します。こうして得られた繭が、生糸の原料となるのです。


種屋 — 蚕種製造の専門家たち

養蚕業の根幹を支えたのは、良質な蚕種の供給でした。

いかに良い桑の葉があっても、蚕の品質が悪ければ上質な繭は得られません。そこで発達したのが、蚕種製造を専門に行う業者——「種屋(たねや)」です。

八王子近郊、特に鑓水(やりみず)・由木(ゆぎ)・小比企(こびき)方面には蚕種製造業者が集積していました。種屋たちは、良質な蚕の系統を維持管理し、蚕種紙に産卵させて保存・流通させます。蚕種紙は軽量で運搬しやすく、甲州・信州方面への供給も行われました。

八王子が織物の集散地であっただけでなく、蚕種の集散地としても機能していたことは、「桑都」の産業構造を理解するうえで重要です。桑の栽培→蚕種の製造→養蚕→製糸→撚糸→染色→製織——この長い工程連鎖の中で、八王子は複数のポジションを担っていたのです。

さらに、横浜開港後の一時期には蚕種の海外輸出も行われました。19世紀後半、ヨーロッパでは蚕の微粒子病(ペブリン病)が猛威を振るい、健全な蚕種が深刻に不足していました。日本の蚕種は、その貴重な代替供給源として海を渡ったのです。


桑畑が消えた日

桑の栽培と養蚕は、明治・大正期に最盛期を迎えます。多摩地域全体に桑畑が広がり、八王子は生糸と蚕種の集散地として活況を呈しました。

しかし昭和に入ると、状況は急速に変わります。

世界恐慌(1929年)

生糸価格が暴落し、養蚕農家は深刻な打撃を受けました。「蚕は天の虫」——天候と市況に左右される養蚕の脆さが露呈した瞬間です。

八王子空襲(1945年8月2日)

中心市街地の約80〜90%が焼失し、織物工場も桑畑も壊滅的な被害を受けました。

化学繊維の普及(1950年代〜)

ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維が登場し、絹の需要は急減していきます。

宅地化の進行(1960年代〜)

高度経済成長期、都心の過密を避けて八王子に大学や工場が移転してくるのに伴い、桑畑は次々と住宅地に転用されていきました。

現在、八王子市内の養蚕農家はほぼ皆無です。桑畑もほとんど消滅しました。かつて「桑の都に青嵐吹く」と詠まれた一面の桑畑の風景は、もはや記録の中にしか存在しません。


養蚕の記憶をたどる

桑畑は消えても、養蚕の記憶は各所に残っています。

八王子市内には、蚕影神社(こかげじんじゃ)蚕影堂(こかげどう)と呼ばれる養蚕にゆかりのある神社・祠が点在しています。蚕の豊作を祈り、蚕を病気から守ってもらうための信仰です。

養蚕に使われた蔟(まぶし)や糸繰り器具、蚕種紙などの民俗資料は、郷土資料館に保存されています。桑都日本遺産センター「はちはく」でも養蚕関連の展示を見ることができます(2026年10月に新ミュージアムへ移転開館予定)。

そして「桑都」という言葉そのものが、養蚕の時代を記憶する最大のモニュメントです。令和2年(2020年)に八王子市が日本遺産「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」の認定を受けたことは、桑と蚕と絹が織りなした八王子の歴史を、次の時代に語り継ぐ意志の表れでもあります。


まとめ

水はけが良すぎて米が育たない。その制約を桑の栽培に転じた農民たちの選択が、「桑都」八王子の原点でした。桑の葉で蚕を育て、繭から糸を取り、糸を撚って染めて織る。この長い工程連鎖の出発点に、養蚕という営みがありました。

良質な蚕種を製造した種屋たち。蚕種紙を甲州や信州に送り、横浜を経由して海外にまで届けた流通の力。養蚕は、八王子の織物産業を根底で支える見えない土台だったのです。

いま、桑畑は住宅地に姿を変え、蚕を飼う家はほとんどありません。けれども「桑都」の名がこの街に残り続ける限り、養蚕の記憶は消えることがないでしょう。


参考文献

八王子市ホームページ「桑都八王子は織物のまち」 / 日本遺産「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」公式ポータルサイト / 八王子市ホームページ「八王子の歴史と文化」

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。