八王子駅前はなぜ変わり続けるのか —— 織物タワーから桑都の杜まで130年
明治22年の初代駅開業から、令和8年10月開業予定の「桑都の杜」まで。八王子駅前が130年にわたってつくり変えられ続けてきた背景を、戦災復興・商業競争・法定計画という3つの駆動要因から辿る。

この記事の目次
令和8年(2026年)10月3日、八王子駅南口に「桑都の杜」という複合施設が開業します。旧医療刑務所の跡地に生まれるこの施設は、桑都手帖の読者にとっても関心の高い最新トピックですが、実は八王子駅前が姿を変えるのはこれが初めてではありません。明治の駅開業から数えて130年以上、この場所は幾度となくつくり変えられてきました。なぜ駅前は変わり続けるのか。その足あとを辿ってみたいと思います。
連載「八王子という街」第14回|この連載をまとめて読む
明治の駅、二度の移転
現在の八王子駅の歴史は、明治22年(1889年)にさかのぼります。甲武鉄道が同年4月に新宿〜立川間を開通させると、続く8月11日には立川〜八王子間も開通し、これによって初代「八王子駅」が開業しました。
ただし、この初代駅舎の位置は、現在の駅とは異なっていました。現在の「東京たま未来メッセ(東京都立多摩産業交流センター)」付近、いまの駅よりも北東側に位置していたとされます。
駅が現在地付近へ移転したのは、開業から12年後の明治34年(1901年)8月1日のことです。官設鉄道が八王子〜上野原間まで延伸開業したのに伴い、駅は現駅舎よりやや西寄りの場所へ移されました。跡地は現在、駐車場等になっています。この移転が、延伸ルートとの取り合わせによるものか、市街地との位置関係を調整する狙いがあったのかなど、詳しい経緯を示す資料までは今回確認できませんでした。
その後、明治39年(1906年)に甲武鉄道は国有化され、明治42年(1909年)10月12日の線路名称制定により、当駅は中央本線に位置づけられます。今日私たちが使う中央線の駅としての枠組みは、この時期にほぼ固まったことになります。
焼け野原からの区画整理と「織物タワー」
八王子駅前の姿を最初に大きく変えたのは、戦災でした。昭和20年(1945年)8月2日、八王子は空襲を受け、約1,600トンもの焼夷弾が投下されて市街地の約80%が焦土と化しました。
この壊滅的な被害からの復興は、翌昭和21年(1946年)、特別都市計画法に基づき八王子市が「戦災復興都市」の指定を受けるところから始まりました。これは東京の区部以外では全国で唯一の指定だったといいます。戦災復興土地区画整理事業では、駅の北口・南口、そして八日町周辺の3地区が対象となり、駅前広場や、甲州街道と駅を結ぶ大通り(現・桑並木通り)、東西の放射線通り(後のアイロード・ユーロードにあたる街路)が新たに整備されました。昭和27年(1952年)には、区画整理と並行して新しい駅舎も完成しています。
戦後復興のシンボルとして駅前に姿を現したのが、「織物タワー」でした。昭和35年(1960年)、八王子織物産地の買継商組合が、北口広場に「織物の八王子」と大書された巨大なモニュメントを建設し、翌昭和37年(1962年)に市へ寄贈しました。生糸と織物のまち・桑都を象徴するランドマークとして、この塔は長く市民に親しまれることになります。
しかし織物タワーも、永遠に駅前に立ち続けたわけではありません。平成7年(1995年)、駅北口再開発事業(地下駐車場整備)に伴い、解体・撤去されることになりました。撤去後の北口駅前には、絹織物を八の字に巻いたイメージの新たなモニュメント「絹の舞」が設置されます。「マルベリー(mulberry=桑)」の名を持つペデストリアンデッキが、この場所に生まれるのはこの少し後のことです。戦災復興という一つの時代が、織物タワーという一つの塔の一生とともに幕を閉じたと言えるかもしれません。
そごう八王子とセレオ、百貨店の栄枯盛衰
昭和から平成にかけて、駅前の顔となったのは百貨店でした。昭和58年(1983年)11月、JR八王子駅に直結する駅ビル内に「そごう八王子店」が開業します。
平成に入ると、多摩そごう・有楽町そごう・錦糸町そごうなど、都内の他のそごう店舗が相次いで閉店していきました。その結果、平成24年(2012年)時点で、そごう八王子店は「都内唯一のそごう」という存在になっていたといいます。しかしその八王子店も、同年1月31日、28年間の歴史に幕を下ろすことになります。閉店セレモニーでは、当時の店長が「3年前からは八王子市と共に街の活性化運動に協力してきた」とコメントしたと伝えられています。
そごう撤退は、駅前の空白ではなく、次の転換のきっかけとなりました。駅ビルはJR東京西駅ビル開発によって改装され、同年10月25日、「セレオ八王子北館」としてリニューアルオープンします。地下1階・地上11階建てのこの駅ビル型商業施設は、JR東日本グループが運営しています。南館にあたる「セレオ八王子」(南口側)は、これに先立つ平成22年(2010年)11月11日にすでにグランドオープンしていました。
百貨店という一つの業態が撤退した跡地に、駅ビル型商業施設という新しい業態が根付いていった過程がここに見えます。ちなみに、令和8年(2026年)春にはセレオ八王子北館2階フロアのリニューアルが予定されており、新エントランス開設とともに8店舗が改装・初出店するとの発表もあります。駅前の商業施設は、いまも更新を続けています。
マルベリーブリッジとサザンスカイタワー、平成の再開発
百貨店の栄枯盛衰と並行して進んでいたのが、南口の大規模再開発でした。平成3年(1991年)5月、「八王子駅南口地区市街地再開発準備組合」が設立され、平成5年(1993年)3月には都市計画決定がなされます。
もっとも、この事業がすぐに動き出したわけではありません。経済状況の変動などにより事業化の目途が立たない期間が続きました。事業が再び動き出すのは、平成12年(2000年)12月の都市計画変更告示、そして平成18年(2006年)1月の再度の都市計画変更告示を経てからのことです。同年2月に施行区域が公告され、8月には「八王子駅南口地区市街地再開発組合」が設立認可を受けます。平成19年(2007年)9月に権利変換計画が認可され、翌平成20年(2008年)1月に再開発ビルの工事が着工しました。
準備組合の設立から約19年を経た平成22年(2010年)11月、事業はついに竣工を迎えます。誕生したのは、住宅・文化・業務・商業の複合超高層施設「サザンスカイタワー八王子」でした。地下2階・地上41階建て、高さ約158m、延床面積約99,800㎡という規模を持つこのタワーは、低層部に店舗、中層部(地上4階〜10階の一部)に最大収容約2,021席の「オリンパスホール八王子」と業務施設、公共公益施設として八王子駅南口総合事務所を備え、高層部は390戸の集合住宅となっています。平成23年(2011年)12月、再開発組合は解散し、事業は完了しました。
駅の南北をつなぐ動線も、この時期に整備が進みました。北口と自由通路を結ぶペデストリアンデッキ「マルベリーブリッジ」は、平成11〜12年(1999〜2000年)頃に完成したとされます。平成26年(2014年)3月30日には京王八王子駅方向(東放射線通り「アイロード」方面)へ延伸開通し、平成29年(2017年)度からの準備工事を経て、令和2年(2020年)4月5日には西放射線通り商店街「ユーロード」方面・八王子東急スクエアへの延伸部が開通しました。この延伸工事には約16億5,300万円の費用がかかったといいます。歩いて渡れる橋一本にも、駅前を回遊できる街にしようという狙いが込められています。
中心市街地活性化計画と「桑都の杜」、令和の新章
個々の再開発事業を束ねる法定の枠組みとして、八王子市は「中心市街地の活性化に関する法律」に基づく「中心市街地活性化基本計画」を策定しています。〈第1期〉は平成30年(2018年)4月認定(平成30年3月23日認定、同年11月29日変更)で、計画期間は平成30〜令和4年度でした。
〈第2期〉は令和5年(2023年)3月17日に内閣総理大臣の認定を受け、計画期間は令和5年4月〜令和10年(2028年)3月。計画区域はJR八王子駅・京王八王子駅周辺や甲州街道の一部を含む約115haに及びます。基本理念は「多様な価値観や幅広い世代がつながり“にぎわい”が生まれるまち」で、(1)文化・歴史を含むまちの魅力を回遊できる空間の創出、(2)個性ある商業空間の創出、(3)交流を通じて安心して過ごせる空間の形成、という3つの目標を掲げています。第2期計画は国の認定後も、2024年8月、2025年3月・8月、2026年3月と複数回の変更認定を受けながら更新が続けられています。これと連動する「八王子市中心市街地まちづくり方針」は、駅周辺・北口・京王・甲州街道沿道・南口の5地区に分けて地区戦略を定めるものです。
そして令和8年(2026年)、この法定計画の延長線上に生まれるのが「桑都の杜」です。八王子駅南口に隣接していた旧「八王子医療刑務所」の移転後用地を活用する構想は平成28年(2016年)3月に「活用計画」として決定され、学び・交流・防災の3機能を備えた複合施設として、PFI方式(設計・建設・維持管理・運営を民間資金・ノウハウで実施する方式)で整備が進められてきました。施設は防災機能付き「みんなの公園」、「歴史・郷土ミュージアム」、「憩いライブラリ」、「交流スペース」の4つの主要機能で構成されます。主要部分の工事は令和8年5月31日に完了し、広域避難場所の指定は同年8月1日から開始、開業日は同年10月3日に決定しました。防災面では、大規模災害時の延焼火災やガス危険から市民を守る避難広場として、約7,000人の避難を想定しているといいます。
明治の駅移転、戦災復興の織物タワー、そごう撤退という商業競争、法定計画に基づくサザンスカイタワー——。駆動要因はそのつど異なっていましたが、八王子駅前は常に「その時代の必要」に応じて形を変えてきました。桑都の杜もまた、その130年の連なりに新たに加わる一章にすぎません。次にこの場所がどう変わるのか、それはまだ誰にも分かりません。
まとめ
八王子駅前が変わり続けてきた理由は、一つではありません。明治の鉄道延伸という交通上の要請、戦災という不可抗力からの復興、百貨店撤退という商業競争の帰結、そして中心市街地活性化法という法定計画に基づく再開発——。異なる時代に、異なる駆動要因が重なり合いながら、この130年間、駅前の姿はつくり変えられ続けてきました。
「織物タワー」が消え、そごうが撤退し、サザンスカイタワーが建ち、いま桑都の杜が生まれようとしています。今の景色もまた、いつか次の景色に置き換わっていくのでしょう。そう考えると、日々見慣れた駅前の風景も、少し違って見えてくるのではないでしょうか。
この連載の他の記事
連載「八王子という街」は、学生から50代まで、暮らしの視点から八王子という街の様々な顔を辿るシリーズです。
- 前の回: 住宅地に現れたクマ
- この連載をまとめて読む: 多摩織の担い手をどう繋ぐか
参考文献
この記事は連載「八王子という街」第14話です
相続した山林・農地を手放す —— 相続土地国庫帰属制度という選択肢
Support
※ Stripe決済(合同会社月香が運営)で安全にお支払いいただけます






