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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.10.16 · 7分で読めます

大正の八王子織物、女性が男性を数で上回った年 —— 「女工哀史」のイメージと、史料が語る数字のあいだ

大正5年から12年のあいだに八王子織物業の従業員で女性が男性の数を上回ったという統計の事実と、「女工哀史」のイメージが八王子にそのまま当てはまるとは言えないという史料の限界を、史実とイメージを分けて追う。

織機に張られた無数の経糸のクローズアップ

大正12年(1923年)、八王子の織物業で働いていた従業員は5,253人。そのうち男性は1,947人、女性は3,306人——働き手の数で、女性が男性をはっきりと上回っていました。この数字だけを見ると、「女工哀史」という言葉が思い起こさせるような、過酷な労働に明け暮れる大勢の女性たちの姿を想像してしまうかもしれません。ですが、八王子に残る史料を丹念にたどっていくと、そのイメージをそのまま当てはめてよいのかどうか、簡単には言い切れない事情が見えてきます。家内工業から工場制工業へと移り変わる過程で、何が記録され、何が記録されなかったのか——数字の背後にあるものを追っていきます。

連載「桑都の織物史」第18回|この連載をまとめて読む


家内工業から工場制工業へ —— 染色講習所と同業組合の成立

江戸中期以降、八王子は養蚕と生糸・絹織物の取引で栄え、「桑都」と呼ばれるようになりました。もっとも、この呼び名が平安末期の歌人・西行の和歌に由来するという説は、市の観光資料でも「伝えられる」という留保付きで紹介されており、同時代の史料による直接の裏付けは確認されていません。

本格的に産業として組織化が進むのは明治以降のことです。明治19年(1886年)、仲買商らが「八王子織物組合」を結成しました。当時、化学染料の品質問題で八王子織物が市場から排除されるという苦い経験があり、これを乗り越えるために組合は染色講習所を開設し、染色技術の立て直しに動きました。

明治32年(1899年)には、仲買商だけでなく実際に織物を生産する機屋(はたや)や撚糸業者も含めた「八王子織物同業組合」が新たに設立されます。組合員は機屋・買継商・撚糸業者など、合わせて約3,900人に達したと記録されています。この時点ではまだ生産の主体は手機(てばた)を使った家内工業——問屋が原料を農家に預け、農家が自宅で織って納める仕組み——が中心であり、「工場で大勢の人が働く」という光景はまだ一般的ではありませんでした。


器械製糸の先駆け —— 萩原製糸場から片倉組へ

家内工業の外側で、もう一つの動きが明治初期から始まっていました。明治10年(1877年)、萩原彦七という人物が中野村(現在の中野上町)に「萩原製糸場」を創業します。これは八王子周辺では最初期の、器械を使った製糸場のひとつとされています。

本文画像: 繭から糸を繰る職人の手元

明治26年(1893年)の調査では、萩原製糸場は340釜(かま)という規模を備え、当時「日本最大」として知られた富岡製糸場(群馬県)を上回る規模だったと記録されています。地方の一事業者が、官営の模範工場を凌ぐ規模にまで成長していたという事実は、当時の八王子における製糸業の勢いを物語っています。

しかし明治33〜34年(1900〜1901年)ごろ、生糸の市況が大きく悪化する「糸価暴落」が起こります。この波を受けて、明治34年(1901年)、片倉組(のちの片倉製糸紡績、現在の片倉工業)が萩原製糸場を買収しました。以後は「片倉製糸紡績八王子製糸場」として稼働を続け、昭和12年(1937年)に建てられた蚕室(蚕を飼育・保管する建物)は、中野上町に当時の姿のまま現存しています。この蚕室は八王子市の「桑都日本遺産」を構成する文化財のひとつに数えられており、現在は日本機械工業株式会社が管理しています。工場の敷地内にはかつて大きな湧水池があり、その大部分は埋め立てられましたが、一部は現在も消防車のポンプ放水テストに使われているといいます。


力織機普及と大正の数字 —— 女性が男性を上回った年

転機は大正に入ってから訪れます。大正3年(1914年)前後から、電力を動力源とする大型の力織機(りきしょっき)が各地で普及し始めました。これにより、八王子の織物生産は手機中心の家内工業から、工場に機械を集めて動かす工場制工業へと、急速に姿を変えていきます。機業家(機屋)たちは動力を確保するために市街地へ移り住み、労働力は町の大きな機屋へ集中していったと記録されています。

この転換を裏付ける数字が、八王子商工会議所の資料に残っています。従業員数は大正5年(1916年)の3,117人から、大正12年(1923年)には5,253人へと増加しました。その内訳は男性1,947人・女性3,306人——この7年間で従業員数が1.7倍近くに増えただけでなく、働き手の男女比そのものが逆転し、女性が男性の数をはっきりと上回っていたことになります。

なお大正6年(1917年)9月、八王子は東京府内で2番目に市制を施行し「八王子市」となりました。これは偶然ではなく、織物産業の拡大にともなう人口増加・都市化を背景の一つとしていたと考えられています。働き手の数が増え、男女比が変わっていくという労働市場の変化と、「町」から「市」への移行は、同じ時期に重なって進んでいたのです。


「女工哀史」のイメージと、八王子に残る史料の限界

ここまでの数字を見て、多くの方が思い出すのが「女工哀史(じょこうあいし)」という言葉でしょう。京都出身の細井和喜蔵という人物が、紡績工場で実際に働いた体験や取材をもとに著した同名のルポルタージュは、大正14年(1925年)7月に改造社から刊行されました。前借金による拘束、長時間労働、寄宿舎生活の過酷さを描いたこの一冊は、以後「工場で働く女性労働者」全般を指す象徴的なイメージとして全国に広まっていきました。細井自身は、本の刊行からわずか1か月後の同年8月に世を去っています。

ただし、ここで立ち止まって確認しておきたいことがあります。『女工哀史』が描いた具体的な事例は、紡績業(綿糸を扱う業種、主に大阪など)が中心であり、八王子の主力産業だった絹織物・撚糸・製糸業における労働実態を直接記録したものではありません。全国的な制度の文脈として、明治44年(1911年)3月28日に工場法が公布され、年少者や女子の労働時間制限、業務上の事故に対する雇用者の扶助義務などが定められましたが、この法律の施行自体は大正5年(1916年)9月まで延期されています。製糸業の労働時間は全国的に1日14時間(工場法適用工場でも13時間)に及び、紡績業の二交替制では年少女子の深夜労働が特に問題視されていた、という記録も残っています。

しかし、これらはあくまで全国的な制度・実態の文脈にとどまります。片倉製糸八王子製糸場や、八王子の織物工場が実際にどのような基準・運用で労働時間や休日を定めていたかを示す一次資料は、今回の調査では見つかりませんでした。賃金水準、前借金制度の有無、寄宿舎の生活実態、労働争議やストライキの有無——働く女性たち自身の経験を具体的に語る証言や記録は、現時点では確認できていません。確認できているのは、従業員数とその男女比という「統計」の範囲であり、「女工哀史」が描いたような過酷さがそのまま八王子にも当てはまっていたはずだという推測は、現時点では裏付けのないイメージの投影にとどまります。数字が語ることと、数字が語らないことを、分けて受け止める必要があります。


昭和の絶頂、そして空襲 —— 働き手たちの職場はどうなったか

大正から昭和にかけて、八王子は文字通り「織物の町」として最盛期を迎えます。昭和10年(1935年)時点で、市内にあった工場1,372のうち実に97%が織物関連業種であり、従業員数・生産額のいずれにおいても95%を織物関連が占めていました。昭和初期の不況下でも、組合は紋織物「多摩結城」の開発や海外市場開拓に努めたと記録されています。

→多摩結城の開発については、八王子織物とジャカード織機で詳しく紹介しています。

しかし、この絶頂は長くは続きませんでした。昭和20年(1945年)8月2日の八王子空襲により、市街地の約9割が焼け野原となります。空襲後に操業していた工場数は、昭和16年(1941年)時点と比較して約20%程度まで減少したと記録されています。大正の統計が映し出した、男性を上回る数の女性たちが働いていた工場群——その多くが、この一夜で姿を消したことになります。

昭和24年(1949年)、戦時中からの繊維関係の統制が撤廃され、産業は新たな形で再編されていきます。織物生産はネクタイ地やウール地など新分野へ展開し、昭和31年(1956年)にはネクタイ生産量が全国の6割を占めるまでになりました(いわゆる「ガチャ万」景気。この景気と産業構造の詳細は→ガチャ万景気とネクタイ産業で既に扱っています)。力織機の台数は1950年代の9,000台以上から、1998年(平成10年)には758台まで減少しており、長期的な産業規模の縮小と労働力需要の変化を物語っています。


まとめ

大正5年から12年のあいだに、八王子織物業の従業員は女性が男性の数を上回るまでに増えました。この統計そのものは、八王子に残る史料が確かに語っている事実です。しかし「女工哀史」という言葉が思い起こさせる過酷さが、そのまま八王子の工場にも当てはまっていたかどうかは、現在確認できる史料の範囲では判断できません。数字が語ること(従業員数・男女比)と、数字の背後にあるはずの個々の経験(賃金・労働時間・寄宿舎生活)——その両方を混同せずに見ていくことが、桑都の織物史を正確に伝えるための、小さいけれど欠かせない姿勢だといえるでしょう。


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連載「桑都の織物史」は、八王子の織物産業がたどった500年あまりの歴史を一話ずつ紐解くシリーズです。


参考文献

八王子市ホームページ「八王子織物の歴史」「はちおうじ物語 其の六 主な構成文化財」 / 三井住友信託銀行「地域の記憶『八王子織物と製糸業の発展』」 / 八王子商工会議所「創立100周年記念誌『織物工業の進展と震災』」 / 国立公文書館「日本のあゆみ『工場法が成立する』」 / コトバンク「女工哀史」 / 八王子ファッション協議会「八王子織物の歴史」

この記事は連載「桑都の織物史」第19話です (全19話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。