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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.10.31 · 7分で読めます

八王子織物の流通制度 —— 六斎市の「縞買」から八王子織物同業組合、大正の買継商店舗化まで

江戸の定期市で台頭した仲買商人「縞買」から、明治の組合化・染色講習所の開設、大正5年の市場廃止と買継商店舗化までを一次資料ベースで追い、八王子織物の値決めの主役がどう移り変わったかを読み解く。

木のテーブルに積み重ねられた装丁の古い書物

毎月4と8のつく日の朝、八王子の横山町と八日町には、繭や生糸、織りあがったばかりの反物を抱えた人々が集まりました。甲州道中の宿場町として栄えた「八王子十五宿」に立つ定期市——六斎市です。ここで織物の値を握っていたのは、織った本人たちではありませんでした。

この記事では、八王子織物が「誰に売られ、誰が値を決めてきたのか」という流通・商業制度の変遷を、江戸期の市から明治の組合化、そして大正の大きな転換点まで追っていきます。連載「桑都の織物史」はこれまで養蚕・染色・労働・技術革新・輸出交渉など生産の現場を中心に辿ってきましたが、今回は「売る仕組み」そのものに焦点を当てます。同じ織物でも、作る側の歴史と売る側の歴史は別の時間軸で動いていたことが、この先の節で見えてきます。

連載「桑都の織物史」第20回|この連載をまとめて読む


市の日に集まった織物、値を決めたのは誰か

六斎市に生産者(農家の兼業織屋)が持ち込む繭や生糸、織物を、その場で買い取って転売する立場にあったのが「縞買(しまかい)」と呼ばれる仲買商人です。縞買は単に品物を右から左へ流す中間業者ではありませんでした。江戸時代末になると、縞買たちは仲間(仲買商のグループ)を結成し、生産者に対する価格決定力で優位な立場を築きながら、市そのものの運営にも力を発揮するようになっていきます。

つまり、八王子が「織物の産地」として知られるようになった背景には、単に良い織物を作る技術があっただけでなく、それを市場に乗せて値をつける仲買商人たちの存在がありました。織った本人である農家の兼業織屋たちは、市の日に自分の品を持ち込むことはできても、その値をどう決めるかという交渉の場では、縞買の仲間が築いた立場に頼らざるを得なかったのです。八王子の町は、織物を「作る場所」であると同時に、周辺農村から集まる品を集積し取引する「流通の要衝」としての性格を、この時期から強めていったのです。


粗悪な染料が招いた信用失墜と、仲買商の組織化

その縞買たちの立場が大きく動くきっかけとなったのが、明治10年代に起きた品質の危機でした。輸入された粗悪な化学染料(アニリン染料)がむやみに使用されたことで、八王子織物の製品としての信用が失墜し、一時は市場から締め出される事態に陥ったのです(この染料問題自体は連載第4回で詳しく扱っているため、本稿では流通側の対応に絞って見ていきます)。

信用の失墜は、仲買商たちにとっても他人事ではありませんでした。品質の悪化を放置すれば、自分たちが市で動かしている商品そのものの価値が下がってしまうからです。記録によれば明治7年(1874年)、縞仲買人らが「八王子駅織物会所」の設立を申請します。そして明治19年(1886年)、この織物会所は「八王子織物組合」へと改称され、仲買商主導の統制組織として再編されました。

八王子市公式サイトも「明治19年に仲買商らが八王子織物組合を結成した」と記しており、1874年の会所設立申請から1886年の組合改称までの約12年間が、仲買主導による組織化の第一段階だったと整理できます。品質問題という外部からの圧力が、それまで市の運営者に過ぎなかった仲買商たちを、産地を代表する組織の担い手へと押し上げていったといえるでしょう。縞買たちは、市場の運営者であると同時に、産地の信用を守る立場も兼ねるようになっていったのです。


染色講習所と「八王子織物同業組合」——流通と品質の両輪

組合化の翌明治20年(1887年)、品質問題への技術的な回答として「染色講習所」が新町に開設されます。当時の日本の染色技術の第一人者とされた山岡次郎・中村喜一郎の両名が招かれ、堅牢な染色方法の指導にあたったと伝えられています。組合を作って市場での統制力を強めるだけでは、一度落ちた品質への信用を取り戻すことはできません。流通・統制を担う仲買側の組織(組合)と、生産品質を担う側の技術指導(講習所)が、明治20年前後にほぼ同時に整えられたことになります。八王子の産地が「流通の自衛」と「品質の自衛」を両輪で進めていたことがうかがえる出来事です。

この両輪はさらに規模を広げます。明治32年(1899年)には、それまで仲買が主体だった組合に製造業者(機屋)も加わり、「八王子織物同業組合」が正式に創立されました。組合員約3,900名という規模は複数の資料が一致して記しており、機屋のほか買継商、撚糸業者といった関連業者も含めて、周辺49町村の生産地を束ねる体制が整いました。織る側(機屋)と売る側(買継商・撚糸業者)が一つの組合の中に同時に名を連ねるようになったことは、流通と生産がもはや別々の世界ではなく、一体の産業として運営される段階に入ったことを示しています。同じ年には八王子を会場に「一府九県連合共進会」という広域の産業振興イベントも開かれ、八王子は単なる生産地から、関東の産地間交流・品評の拠点としての役割も持つようになっていきます。


大正5年、市場が消えた日——買継商店舗化という転換

明治期を通じて拡大してきた流通の仕組みに、大正5年(1916年)、大きな転換が訪れます。それまで続いていた定期市(市場)での取引が廃止され、取引の場は「買継商」の店舗へと移行したのです。八王子織物工業組合の社史は、この年を流通制度上の節目として明示しています。毎月4と8のつく日に町角に人が集まっていた光景は、この時を境に姿を消し、買継商という常設の店舗を介した取引が主流になっていきました。

市場廃止の翌年、大正6年(1917年)9月1日には、八王子町が市制を施行して「八王子市」となりました。織物の流通制度が市場から店舗取引へと移行したタイミングと、町が「市」としての行政的な体制を整えたタイミングがほぼ重なっていたことは、当時の八王子がまちとしても産業としても、大きな節目を迎えていたことを示しています。なお、この市制施行が東京府内で何番目のものだったかについては資料間で表現に食い違いがあり、本稿では順位には立ち入りません。


産地絶頂の大正10年、そして関東大震災

買継商店舗化という新しい流通の仕組みのもとで、八王子織物産地はまもなく一つの頂点を迎えます。大正10年(1921年)、産地は生産数350万点を突破し、生産額4,056万円を記録、全国の織物産地で1位となりました。この間、組合数も明治末の29組合から大正10年には43組合まで増えており、これは生産量が伸びただけでなく、流通・取引を担う組織自体が細分化・多様化していったことを示しています。

しかし絶頂はそのまま続きません。大正12年(1923年)9月、関東大震災が発生します。八王子商工会議所は震災後の輸送問題を同年10月に検討したと記録されており、生糸・織物の輸送網が震災によって混乱したことへの対応が急務になっていたことがうかがえます(震災が八王子織物の洋装化・ネクタイ生地事始めにもたらした影響は連載第12回で既に詳しく扱っているため、本稿では流通・組織側の対応のみに触れます)。拡大を続けてきた流通網が、自然災害という外部要因によって初めて大きな試練にさらされた局面でした。


戦後の組合再編——「八王子織物工業組合」への改称

震災を越え、戦争を越えたのちも、流通を担う組織は変わり続けます。昭和33年(1958年)、組合は現在まで続く正式名称「八王子織物工業組合」に組織変更されました。江戸末期の縞買仲間の結成から、明治19年の八王子織物組合、明治32年の八王子織物同業組合を経て、戦後の八王子織物工業組合へ——約一世紀にわたって形を変えながら、八王子織物の流通・統制を担う組織の系譜は続いてきたことになります。

この組合名は、今日の産地組織の正式名称として現在も使われています。市の立つ日に縞買たちが声を上げていた江戸の町角から、大正の買継商の店先、そして近代的な工業組合の事務所へ——誰が織物の値を決め、どこで売られてきたかという問いの答えは、時代ごとに姿を変えながら、桑都の織物史の中にずっと息づいてきたのです。生産の技術や労働の現場が連載の他の回で語られてきたのに対し、流通という「売る仕組み」の側から見た八王子織物は、こうして約一世紀をかけて組織の形を変えながら続いてきました。


まとめ

八王子織物の流通制度は、江戸の六斎市で台頭した仲買商人「縞買」から始まり、明治の品質危機を経て「八王子織物組合」「八王子織物同業組合」という組織化の段階を踏み、大正5年の市場廃止・買継商店舗化という大きな転換を迎えました。大正10年の生産絶頂と関東大震災という試練を越え、昭和33年の「八王子織物工業組合」への改称に至るまで、誰が織物の値を決め、どこで取引が行われてきたかという流通の主役は、約一世紀をかけて移り変わってきたのです。

生産の現場だけでなく、こうした「売る仕組み」の変遷を知ることで、桑都の織物史はさらに立体的に見えてきます。市の立つ日を待って品物を担いだ縞買の姿も、組合の看板を掲げた買継商の店先も、今の八王子の町並みからは直接見ることはできません。しかし、その積み重ねの先に、現在の「八王子織物工業組合」という組織の名前が残されているのです。


この連載の他の記事

連載「桑都の織物史」は、八王子の織物産業がたどった500年あまりの歴史を一話ずつ紐解くシリーズです。


参考文献

八王子市ホームページ「八王子織物の歴史」 / 八王子織物工業組合「歴史・伝統」 / 三井住友トラスト不動産「町の歴史散歩:2.『八王子織物』と製糸業の発展」 / 八王子市ホームページ「織物のまち八王子」(キッズサイト) / 八王子商工会議所「織物工業の進展と震災」(創立100周年記念特設ページ) / 多摩みらい交流財団コラム「第2回 八王子繊維産業の歴史と現在」

この記事は連載「桑都の織物史」第21話です (全21話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。