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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.09.13 · 更新: 2026.09.14 · 7分で読めます

力織機の導入と八王子織物の近代化 —— 大正の電化が変えた産地のかたち

大正3年の第一次世界大戦好景気を境に、八王子の機業家は農村から市街地へと移り住み、産地は工場制生産へと姿を変えました。力織機の統計、市制施行、そして90年に及ぶ織機の台数曲線を一次資料で辿ります。

竹竿に干された藍染の布

大正の初め、八王子の機屋(はたや)の多くは、まだ農村に点在する家内工業でした。ところが、わずか十数年のうちに、この産地の風景は一変します。手織り機が主役だった機屋の並びに、電気で動く「力織機」が姿を現し、機業家たちは動力を求めて農村から市街地へと移り住んでいきました。既刊で辿ってきたガチャ万景気やネクタイ産業の絶頂は、実はこの大正期の電化という土台の上に築かれています。何が、この転換を引き起こしたのでしょうか。

連載「桑都の織物史」第15回|この連載をまとめて読む


明治43年、電気の灯る産地へ

八王子の織物産地は、明治期を通じて着実に規模を拡大していました。明治32年(1899年)には、製造業者を含めた「八王子織物同業組合」が設立され、組合員は約3,900人に及んだといいます。仲買商による組合結成からさらに一歩進み、製造の現場までを束ねる組織が生まれたことは、産地としての体裁が整いつつあったことを物語っています。

転機は、その11年後に訪れました。明治43年(1910年)、八王子の産地に電動力の供給が始まり、力織機の使用がこの年から始まったのです。八王子織物工業組合公式サイトの沿革年表にはっきりと記されているこの一行は、「大正期に入ってから動力化が始まった」というやや大づかみな理解よりも、precise(正確)な起点を示しています。既刊「紋ウール」(第13回)でも、この明治43年からの動力化については簡単に触れましたが、この転換そのものを主題として掘り下げるのは、今回が初めてです。

ただし、明治43年時点ではまだ、力織機は産地の主役ではありませんでした。電気が灯り、力織機という選択肢が生まれた——それだけの段階です。八王子の機屋の大半は、依然として手織り機を動かす農村の家内工業のままでした。機を織る作業は、農閑期の内職として、あるいは家族総出の家内労働として営まれるのが普通で、機屋の多くは市街地から離れた集落に散らばっていました。

電気という新しい動力が届いたところで、それをすぐに使いこなせる体制が整っていたわけではなかったのです。この静かな幕開けから本格的な転換までには、もうしばらくの時間が必要でした。


大正3年、世界大戦景気と「農村から街へ」の大移動

その時間を一気に縮めたのが、大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦でした。それまで沈滞していた日本経済は、戦時好景気にわきかえります。この好景気を背景に市街地への電力供給が広がり、電力を使用する大型の力織機の普及が急速に進みました。力織機1台で手織り機数台分の織物を生産できたため、生産性は大幅に向上したといいます。

ここで、産地の地理そのものを揺るがす変化が起きます。動力(電力)を必要とする力織機は、電力インフラの整った市街地でなければ効率的に稼働できません。そのため、それまで農村部に分散していた機業家たちが、動力を求めてこぞって市街地へ移住する動きが生じたのです。

一台の機械が普及するという出来事が、人の住む場所そのものを動かした——この因果は、単なる設備更新の話にとどまりません。産業構造そのものが「農村の家内工業」から「都市の工場制生産」へと大きく転換し、産地の地理的重心が農村から市街地へと移る、いわば都市構造の再編がここで始まったことになります。


数字が語る急増 —— 手織機四千台から力織機四千台へ

この転換の速度は、織機の台数という数字に、はっきりと刻まれています。郷土史サイト「桑都みらい物語」(『新八王子市史 通史編5・6』を参考文献に掲げる)の記述によれば、大正3年(1914年)時点で八王子には手織機4,493台・力織機291台があったといいます。それが大正9年(1920年)には、手織機1,593台・力織機4,681台になったとされます。

わずか6年のあいだに、力織機の台数は約16倍に急増した一方で、手織機は約3分の1にまで減少し、両者を合わせた台数は約6,300台に達したといいます。大正3年にはまだ15分の1にも満たなかった力織機の比率が、大正9年には手織機を上回るまでになった計算です。第一次世界大戦の好景気という一時の追い風が、産地の設備構成そのものを塗り替えてしまったことが、この数字からうかがえます。

動力化は、機屋の作業風景も変えました。人の手と足で経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織り上げていく手織りの作業場に代わって、電動モーターの音が響く工場的な作業場が、市街地のあちこちに増えていったはずです。一台の織機を動かすのに、それまでは織り手一人の手と足の力がすべてでしたが、力織機はモーターの回転を動力に変えて経糸を上下させ、杼(ひ)を走らせます。同じ時間でより多くの反物を織り上げられるようになったことは、機業家にとって、働き方そのものを変える出来事だったはずです。この6年間は、八王子織物の「見た目」そのものが変わった時期だったといえるでしょう。


動力化が生んだ余力 —— 婦人もの・新素材・ネクタイ試作

力織機の導入は、単に同じ商品を速く多く作れるようになった、というだけの変化ではありませんでした。生産能力に余力が生まれたことは、産地が新しい商品分野へ挑戦する土台にもなったとみられます。八王子織物工業組合公式サイトの年表からは、大正期を通じて次のような多角化の動きが確認できます。

大正4年(1915年)には、「婦人もの」(女性向け織物)の研究が一部で始まりました。大正5年(1916年)には、それまで「市」(市場での取引)が中心だった織物の取引の場が、買継商の店舗での取引へと変化します。そして大正11年(1922年)、第1回「婦人もの求評会」が開催されました。これが、産地における多角生産の第一歩と位置づけられています。

さらに大正12年(1923年)、関東大震災が発生したまさにその年に、新しい繊維素材「ベンベルグ」(キュプラ系の再生繊維)が産地に導入されます。そして翌大正13年(1924年)、ネクタイの試作に成功しました。既刊「ガチャ万景気とネクタイ産業」(第11回)で辿った戦後の絶頂に至るネクタイ産業の、これが大正期における最初の一歩にあたります。動力化から数年〜10年ほど遅れて、これらの新分野への挑戦が連続的に起きていることは、力織機がもたらした生産余力と技術的自由度が、産地の視野を広げる後押しになった可能性を示しています。


市制施行、そして90年の織機曲線

大正6年(1917年)9月1日、八王子は市制を施行しました。複数の資料が、この市制施行の背景として、力織機導入による産業発展とそれに伴う人口増加を挙げています。「機業家の市街地移住 → 人口増加 → 市制施行」という因果の流れが、独立した複数の資料で一致して語られていることは、電化という一つの技術転換が、産地の経済だけでなく街のかたちそのものを変えたことを裏づけています。

農村に点在していた機屋が、動力を求めて市街地へと集まり、やがて一つの「市」を形づくった——その意味で、力織機の導入は八王子という街の成り立ちに直結する出来事だったといえます。今でこそ八王子は多摩地域最大級の街ですが、その出発点をたどると、電気という新しい動力を追いかけて人が動いた、という産業の事情に行き着くわけです。街の名前を「桑都」と呼ぶとき、私たちはしばしば織物の伝統の長さを思い浮かべますが、その伝統が「市」という行政の単位にまで結実した背景には、大正期のこの数年間があったことになります。

力織機の台数が16倍に急増し、機業家が市街地へ集まり、市制が施行される——この一連の流れは、いずれも大正3年から大正6年までのわずか3年ほどのあいだに集中しています。産地の姿が変わる速さとしては、江戸期以来の数百年の歴史のなかでも際立って急だったといえるでしょう。

この後の展開は、既刊で辿ってきたとおりです。力織機は昭和16年(1941年)の企業整備令で大半が供出され、昭和20年の空襲でさらに失われましたが(既刊「八王子織物と戦時統制経済」・第14回)、戦後の「ガチャ万」景気を経て産地は復興しました。桑都みらい物語の記述によれば、1950年代には産地全体で9,000台以上あった力織機が、1998年(平成10年)には758台にまで減少したといいます。大正3年に291台から始まった力織機の台数は、大正9年に4,681台、昭和20年代に9,000台以上というピークを経て、平成10年に758台まで下るという、およそ90年にわたる曲線を描いたことになります。


まとめ

明治43年(1910年)の電動力供給開始から、大正3年(1914年)の第一次世界大戦好景気、そして大正6年(1917年)の市制施行まで——わずか7年間に、八王子の織物産地は農村の家内工業から都市の工場制生産へと姿を変えました。力織機という一台の機械の普及が、産地の地理そのものを動かし、街の成り立ちにまで関わったことは、織機の台数という数字の推移から見て取れます。

この動力化がもたらした生産余力は、婦人ものやネクタイといった新分野への挑戦にもつながり、後の「ガチャ万景気」や「紋ウール」で花開く産地の多角化の、最初の種をまいたともいえます。大正の電化から90年近くを経て力織機の台数は大きく減りましたが、その導入が産地の姿を作り替えた大正期の数年間は、桑都の織物史において、静かながら最も大きな転換点のひとつだったといえるでしょう。


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連載「桑都の織物史」は、桑都・八王子の織物産業500年の歩みを時代ごとに辿るシリーズです。


参考文献

この記事は連載「桑都の織物史」第15話です (全19話・更新中)

伝統的工芸品産業振興法とは —— 多摩織が「伝統的工芸品」になるまで

暮らしと法律 · 5分

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。