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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.10.03 · 8分で読めます

陣馬街道と和田峠 —— 甲州裏街道が運んだ絹糸・木炭と、関所を避けた人々の伝承

八王子市街から和田峠を越え甲斐へ抜ける「陣馬街道」は、江戸期には「案下道」と呼ばれた甲州街道の裏街道でした。口留番所、武田家の姫の逃避行、戦国の山城、そして童謡「夕焼小焼」まで、一本の道に積み重なった歴史を一次資料で辿ります。

天日に干される黄色い絹糸の束

八王子市街から西へ、和田峠を越えて甲斐国へ抜ける道があります。今は「陣馬街道」と呼ばれるこの道は、江戸時代には甲州街道の裏街道として、生糸や木炭を運ぶ人々、そして正式な関所の手形を持たない人々までもが行き交った道でした。村人が交代で守った小さな関所、戦国の山城、武田家の姫が辿ったという逃避行の伝承、そして一つの童謡の誕生まで、この一本の道にはどんな歴史が積み重なってきたのでしょうか。

連載「桑都の風土記」第12回|この連載をまとめて読む


甲州街道の裏に隠れたもう一つの道

現在「陣馬街道」と呼ばれている道は、八王子市街の追分交差点――国道20号・甲州街道との分岐点――から西へ分かれ、恩方地区を抜けて和田峠を越え、神奈川県相模原市緑区・佐野川地区を経て、山梨県上野原市で再び甲州街道系統に合流します。路線としては東京都道・神奈川県道・山梨県道521号上野原八王子線にあたります。

この道が「陣馬街道」という名で呼ばれるようになったのは、実はそれほど古いことではありません。東京都の通称道路名として正式に採用されたのは1963年(昭和38年)のことで、それ以前はいくつもの呼び名が併存していました。江戸期には、沿道にあたる武州案下(現在の八王子市上恩方町・下恩方町一帯の旧称)にちなんで「案下道(あんげみち)」と呼ばれ、甲州街道の裏街道にあたることから「甲州裏街道」「甲州脇往還」とも称されました。沿道の地域名から「恩方街道」「佐野川往還」と呼ばれることもあったといいます。

一本の道にこれほど多くの呼び名が重なっていること自体が、この道が公式な大街道ではなく、脇道・裏道として長く扱われてきたことを物語っています。


和田峠(案下峠)—— 東西で呼び名が違う境の峠

その道の最大の難所が、八王子市と神奈川県相模原市緑区の境にある和田峠です。標高690メートル。道幅が狭く、勾配12〜13%のヘアピンカーブが連続する区間があり、積雪・凍結時には通行止めになることもある峠です。

興味深いのは、この峠が東西で呼び名を異にしていたことです。「和田峠」は相模側(神奈川県藤野・佐野川方面)からの呼び名で、現在はこちらの呼称が広く使われていますが、八王子側では元来「案下峠(あんげとうげ)」と呼ばれていたという記述が残っています。今では「和田峠」の呼び名だけが一般に流通し、「案下峠」という呼び方は地元史料や郷土研究の中にしか残っていません。

峠付近には明治初期から中期にかけて開業した茶屋があり、かつて山賊(追いはぎ)が出没したとも伝えられています。関所の分所的な機能を持つ施設が置かれていた時期があったともいい、この峠がただの難所ではなく、人の往来を管理すべき境界でもあったことがうかがえます。


口留番所 —— 村方36人が交代で守った裏街道の関所

峠そのものの管理とは別に、案下道には正式な取り締まりの拠点がありました。上恩方町高留――現在の地名でも「関場」と呼ばれる場所です――に置かれた「口留番所」です。

口留番所とは、大名の領地境や江戸幕府が裏街道に設けた小規模な関所を指します。案下の番所は正式な関所ではなく、村持ちの施設でした。周辺の村人36人が交代で勤務にあたったと伝わっています。甲州街道の小仏峠越えのルートが主要街道として整備される以前、この案下道は武蔵国と甲斐国を結ぶ主要な道の一つとして機能しており、口留番所はその通行人・荷物を取り締まる役割を担っていました。

この番所が廃止されたのは1869年(明治2年)、太政官布告によってです。江戸期を通じて続いた裏街道の関所は、ここで役割を終えました。跡地は1956年(昭和31年)7月28日に八王子市の指定史跡となり、現在は「夕やけ小やけふれあいの里」の先の緑地帯に、八王子市教育委員会による説明板のほか、松姫之碑・金照庵跡碑・関所跡碑・関場記碑などの石碑群が保存されています。


武田家滅亡と、裏街道を抜けた姫の伝承

その石碑群の一つが記念しているのが、松姫という人物です。武田信玄の娘とされる松姫は、1582年(天正10年)、武田勝頼が天目山で自害し武田家が滅んだ際、この案下道――現在の陣馬街道沿いのルート――を通って八王子・恩方方面へ逃れたと伝えられています。

戦国大名の一族が本拠を追われ、見知らぬ土地への逃避行を強いられる。その経路として、正式な関所のある表街道ではなく、村持ちの小さな番所しかない裏街道が選ばれたのだとすれば、案下道という道の性格をよく表す伝承だといえるでしょう。松姫はその後、八王子の信松院で仏門に入ったと伝えられており、この後半生については桑都手帖でも別の記事で扱っています。この逃避行の伝承は郷土史や観光案内の中で広く語られていますが、当該の記述以外に一次史料での直接的な裏付けは、今回の調査では確認できていません。


浄福寺城 —— 案下道を押さえた大石氏の山城

松姫の逃避行からさかのぼること約200年、この道にはすでに戦略的な価値がありました。下恩方町にある浄福寺城(案下城。別称は新城、松竹城など複数あります)は、案下道沿いに築かれた中世の山城です。

一説では1384年(至徳元年)、関東管領・上杉憲顕に仕えた二宮城主・大石信重が築城したとされ、翌1385年(至徳2年)には大石氏の拠点が二宮の館から浄福寺の館へ移されたといいます。甲府方面へ通じる案下古道――本稿で辿ってきた案下道の前身にあたります――を押さえる戦略的な位置にあったためです。

しかし1524年12月14日、山内上杉憲政方の攻勢により浄福寺城は落城し、城主の大石道俊・大石憲重は小田原城へ逃れたとする記録があります。その後、大石氏は北条家に服属し、北条氏照が大石家の家督を継いだ際、最初に入城したのがこの浄福寺城だったとする説もあります。北条氏照は後に本拠を高月城・滝山城へ、さらに八王子城へと移していくことになります。跡地は1972年(昭和47年)1月27日、八王子市指定史跡となりました。

一本の裏街道が、村の関所だけでなく、戦国大名家の攻防の舞台でもあったことが、この城跡からは見えてきます。


絹糸・木炭と「夜の女たち」—— 裏街道を行き交った人々

関所と城が守っていたこの道を、実際に行き交っていたのはどんな人々だったのでしょうか。甲州街道の小仏峠越えのルートが主要街道として整備される以前、案下道は武蔵国と甲斐国を結ぶ主要な道の一つとして、生糸や木炭など山産物の江戸への流通を担っていました。

同時に、この道には表街道にはない役割もあったようです。甲州街道の小仏峠には正規の関所(小仏関所)があり通行手形が必要だったのに対し、案下道は非公式な裏街道であったため、手形を持たない、あるいは持ちたくない人々にも利用されたという逸話が伝わっています。和田峠沿いの茶屋の主人の話として、「絹糸や木炭などを運ぶ人たちに紛れて、遊女らも紛れていた」という伝承が残っているのです。正式な関所を避けたい旅人が裏街道を選んだ実態を示すものとされますが、これは特定の史料に基づく記録ではなく、現地の聞き取りや案内記事に基づく伝承として扱うべきものです。

山産物を運ぶ行商人と、関所を避けたい旅人。表街道では描かれない人々の往来が、この裏街道の実像だったのかもしれません。


恩方が生んだ童謡「夕焼小焼」

関所と城と行商人の道だった案下道一帯は、近代に入ると、まったく違う形で全国に知られることになります。中村雨紅、本名・高井宮吉(1897年1月7日〜1972年5月8日)は、現在の八王子市上恩方町にある宮尾神社の宮司・高井丹吾の三男として生まれました。上恩方尋常小学校、恩方村報恩高等小学校で学んだのち、東京府青山師範学校を経て教職に就いています。

詩「夕焼小焼」が書かれたのは大正8年(1919年)のことです。当時、上京して教員として勤務していた雨紅が、恩方村から八王子駅まで――約16キロメートル――を歩いて通勤していた際に見た夕焼け空に、幼少期の故郷の記憶を重ねて描いたとされています。草川信が曲を付け、大正12年(1923年)7月、文化楽社刊の楽譜集に収録・発表されました。この楽譜集はわずか5曲を収めた小冊子で、当初はピアノ購入者への無料配布という限定的な流通でしたが、その後レコード化を経て全国に広まっていきました。

雨紅の生家・宮尾神社の境内には、1956年(昭和31年)9月10日、雨紅自筆の歌碑が除幕されています。「夕焼小焼」は特定の場所を歌ったものではないという雨紅自身の言葉が伝わる一方、恩方の原風景が下敷きになっているという見方が地元では一般的です。関所の村から、童謡の故郷へ。同じ恩方という土地が、まったく異なる形で歴史に名を残したことになります。


峠を越えた先に —— 佐野川の里と、舗装路になっても残る険しさ

和田峠を越えた先、神奈川県相模原市緑区佐野川地区にも目を向けてみましょう。段々畑と土蔵造りの町並みが評価され、「にほんの里100選」に選ばれている山間集落です。峠道を挟んで、甲州側との人や物の往来があった土地だとうかがえます。

現在の陣馬街道は全線舗装され、陣馬山への登山口へのアクセス路として、また峠越えのドライブ・ツーリングルートとして利用されています。西東京バスが高尾駅から陣馬高原下停留所まで路線を運行しており、登山者の主要なアクセス手段になっています。それでも、この道が自然の険しさと無縁になったわけではありません。2019年(令和元年)10月の台風19号(東日本台風)では、都道521号・陣馬街道の陣馬高原下バス停〜和田峠間が土砂災害等により通行止めとなり、解除は同年11月6日でした。

舗装路になり、観光・レジャーのルートとして親しまれるようになった今も、この峠道は江戸期から変わらず、人の往来を試す場所であり続けています。


まとめ

口留番所、武田家の姫の逃避行、戦国の山城、絹糸と木炭を運ぶ人々、そして童謡「夕焼小焼」。陣馬街道という一本の裏街道には、時代の異なる層の歴史が積み重なっています。甲州街道という表街道の陰で、正式な手形を持たない人々までもが行き交ったこの道は、「陣馬街道」という名で呼ばれるようになったのは1963年とまだ新しく、それ以前は案下道・甲州裏街道など複数の呼び名で、長く地域の生活道として存在してきました。

和田峠を越えて佐野川へと続くこの道を歩けば、表の歴史には記録されにくい、裏街道ならではの人々の営みの痕跡に出会うことができます。


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連載「桑都の風土記」は、八王子の土地に刻まれた信仰・地形・歴史を、史料と伝承を区別しながら掘り起こすシリーズです。


参考文献

八王子ジャーニー「陣馬街道と陣馬山。恩方地域の歴史と文化をたどる」 / note「東京都八王子にある和田峠表裏峠ドライブのご紹介です」 / Motor Fan「甲州裏街道と呼ばれた陣馬街道はいまも裏道だった。」 / はちなび「口留番所跡」 / 八王子見て歩記「口留番所跡」 / 人物事典 幕末維新「案下の口留番所と松姫の石碑」 / 城旅人「浄福寺城(案下城)」 / AXESQUIN ELEMENTS「夜の女たちが行き交った甲州裏街道を行く」 / タウンニュース「『夕焼小焼』の詩、誕生100年 恩方出身中村さんが作詞」 / 日本童謡協会「中村雨紅の『夕焼小焼』」 / 神奈川県ホームページ「にほんの里100選-佐野川地区」 / FunUp「台風19号による登山道・道路通行止め情報」

この記事は連載「桑都の風土記」第14話です (全16話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。