八王子の酒と水 —— 扇状地の伏流水が育てた酒蔵
浅川がつくった扇状地の湧水が支えてきた八王子の酒造り。「20軒の造り酒屋」「2012年に途絶えた」という通説と、大正創業の蔵の現存、そして新しい醸造所の誕生という史実を突き合わせて整理します。

この記事の目次
織物のまち・桑都として知られる八王子ですが、この地にはもうひとつ、地下水に支えられた産業がありました。日本酒づくりです。「かつて20軒ほどの造り酒屋があった」「2012年に最後の一軒が途絶えた」——酒好きの間で語り継がれてきたこうした通説を一次資料で確かめていくと、伝聞と史実のあいだにいくつもの食い違いが見えてきます。扇状地の水とともにあった八王子の酒の物語を、確認できる事実を軸にたどります。
浅川がつくった扇状地と八王子の湧水
八王子の市街地が広がる八王子盆地は、浅川によって形成された扇状地です。北・西・南を囲む丘陵・山地からの湧水が浅川・川口川・山田川・湯殿川・谷地川・大栗川などに注ぎ、やがて多摩川に合流していきます。豊かな水の流れが、この盆地の地形の土台を成してきました。
八王子市の公表資料によれば、2023年度の調査で市内では79か所の湧水が確認されています。このうち叶谷榎池、子安神社(中野山王)、六本杉公園、片倉城跡公園、小宮公園の5か所は、東京都が選定する「東京の名湧水57選」にも名を連ねています。市街地北部の明神町・子安町など周辺地区では、丘陵からの湧水が水田や撚糸(ねんし)工場の動力源として利用されてきた歴史もあり、桑都・八王子織物の発展を地下水が下支えしてきた面もあります。
八王子盆地の地下水は、戦後まもない時期からすでに学術的な調査対象になっていました。1951年発行の学術誌『東北地理』第3巻1-2号には「八王子盆地の地下水」と題する論考が掲載されており、地下水の存在が学術的にも早くから注目されてきたことがうかがえます(論文本文までは今回確認できていませんが、書誌情報としては確認できています)。
水に恵まれたこの土地で、酒造りが育まれてきたことは、決して不思議ではありません。
「20軒の造り酒屋」という通説 —— 確認できることとできないこと
八王子の酒を紹介する記事の多くが繰り返し引用する一節があります。「豊富な地下水を利用した造り酒屋が、かつて市内に20軒ほど存在し、江戸時代後期から近年まで酒造りが行われていた」というものです。かつての銘柄として「日出山」「高尾山」「社会冠」「月丸」「桑乃都」「八王子千人同心」の6つが、しばしばセットで列挙されます。
甲州街道の宿場町として発展し、後に絹織物業(桑都)で栄え、花街(芸妓町)も形成された八王子にとって、地酒文化はその繁栄を映す鏡のように語られてきました。
ただし、この「20軒」「6銘柄」という具体的な数字と銘柄リストについては、注意が必要です。同一の出所とみられる同じ記述が、複数のブログやまとめサイトで繰り返し引用されているだけで、市史や郷土資料館といった一次資料による裏付けは、今回の調査では確認できませんでした。史実として断定するのではなく、あくまで通説・伝聞として扱う必要がある数字です。実際に一次資料で経緯を追える蔵は、次に挙げる2軒に絞られます。
中島酒造場 — 「日出山」「高尾山」を醸し、2010年に幕を閉じた蔵
一軒目は、(有)中島酒造場です。八王子市下恩方町725に所在し、江戸後期の創業と伝えられています。銘柄としては「日出山」「陣馬山」を製造していたとする記録があり、別の情報源では「高尾山」銘柄も中島酒造場によるものとされています。
中島酒造場は2010年(平成22年)9月に廃業(製造休止)しました。この時期については複数の情報源が一致しており、比較的確度の高い事実として扱えます。廃業後、「高尾山」銘柄はあきる野市の中村酒造へ譲渡されたとする情報もありますが、こちらは個人ブログや酒販サイトの紹介文による記述にとどまり、蔵元自身や行政資料による一次確認はできていません。
創業年の詳細や銘柄の帰属の細部には、なお確認しきれていない部分が残ります。廃業後の跡地については、現在は空き地になっているとする記述もあり、かつて蔵があった場所には、もう酒を仕込む建物は残っていないようです。それでも、「かつて八王子にあった蔵が2010年に姿を消した」という一点は、複数の情報源が支持する数少ない確かな事実です。
小澤酒造場 — 大正15年創業、桑都の名を継ぐ「桑乃都」
もう一軒、一次資料で経緯をたどれる蔵が、有限会社小澤酒造場です。東京都八王子市八木町2-15に所在し、大正15年(1926年)創業とされています。代表銘柄は「桑乃都(くわのみやこ)」。八王子の異名である「桑都(そうと)」に由来する命名で、地元産米を一部使用した純米酒「八王子城」なども手がけています。
全国新酒鑑評会では、1993年および1995年〜1997年に金賞を受賞したとする記録があります。都市化の進展により、もともと使用していた地下水(湧水)の水質に影響が生じたため、醸造拠点・仕込み水を秩父系の軟水へと切り替えたとする情報もあり、地下水を用いた酒造りが都市化によって変容を迫られた一例として位置づけられます。
そして重要なのは、この小澤酒造場が今も現役の蔵だということです。東京都酒造組合の公式蔵元一覧には、東京都内で現存する酒蔵として掲載されており、公式サイトでは平日10:00〜17:00、日曜13:00〜17:00営業(土曜・祝日休み)という営業案内も公開されています。大正時代から100年近くにわたって、桑都の名を冠した酒を造り続けてきた蔵が、いまも八王子に存在しているのです。
「2012年に酒蔵が消えた」という通説の矛盾
ここで、冒頭に触れたもうひとつの通説に戻ります。複数のブログや紹介記事では、「2000年代になって市内の酒蔵が次々と廃業し、2012年には最後の酒蔵が醸造を終了、八王子市内から酒蔵醸造が消えた」という趣旨の記述が繰り返し用いられてきました。
しかし、この記述はここまで確認してきた事実と整合しません。小澤酒造場(桑乃都)は大正15年創業以来、東京都酒造組合の公式蔵元一覧に現存の蔵元として掲載されており、自社サイトでも現在の営業時間が案内されています。つまり「2012年に八王子から酒蔵醸造が消えた」という言説は、少なくとも小澤酒造場の存在と矛盾するのです。
なぜこうした食い違いが生まれたのかは、今回の調査では特定できませんでした。中島酒造場の廃業時期が誤って伝わった可能性、小澤酒造場を除いた「他の蔵」を指した記述の一部が省略されて広まった可能性、あるいは後述する新しい醸造所の登場を「復活」として際立たせる文脈のなかで、実態以上に「空白期間」が強調された可能性などが考えられますが、いずれも一次資料での確認には至っていません。確かなのは、「酒蔵が途絶えた」という表現をそのまま受け取るのではなく、「小澤酒造場は営業を継続しているが、2000年代に複数の蔵が廃業し、新規醸造という意味での『途絶えた地酒』の物語が語られてきた」という形で、事実と通説を区別して受け止める必要があるということです。
復活の物語 — はちぷろから東京八王子酒造へ
「新規醸造の空白」を埋めるように動き出したのが、八王子の酒類飲料商社の創業家に生まれた西仲鎌司氏でした。2013年秋、東京オリンピック(2020年大会)招致決定のニュースをきっかけに、「自分たちの手で東京・八王子に日本酒蔵をつくり、日本酒を飲んでもらうことはできないか」という構想を抱いたとされています。
2014年初頭、西仲氏は長野県諏訪市の酒蔵「舞姫」のオーナーとなり、これと並行して八王子市内の農家に酒米栽培を依頼しました。市民参加型の稲作イベントなどを通じて支援の輪が広がり、2018年にはNPO法人「はちぷろ」(八王子酒造りプロジェクト)が設立されます。「八王子の米で、八王子の酒蔵で」というのが、その一貫したコンセプトでした。
構想から10年近くを経た2022年12月、清酒製造免許を取得。そして2023年6月、JR八王子駅から徒歩5分、中町の花街(黒塀通り)にあった料亭の建物を改修する形で、「東京八王子酒造」が本格醸造を開始しました。伝統的な郊外型の酒蔵ではなく、飲食店の厨房内に併設する「都市型醸造所(アーバンブルワリー)」という形態を採る点が特徴で、令和年間に入ってから東京都で新設された日本酒醸造所としては10番目にあたるとされています。地域の農家と協働した酒米づくりにも取り組んでおり、「酒造りは農業の延長線上にある」という理念を掲げています。
郊外の広い敷地に蔵を構える従来型の酒造りとは異なり、駅から徒歩5分という立地に、料亭建物を改修した厨房規模の設備で醸造を行う——この都市型醸造所というあり方自体が、東京八王子酒造の際立った特徴になっています。大正から続く蔵と、令和に生まれた蔵。仕込みの場所も規模も異なる二つの造り手が、いま同じ八王子の地で酒を醸しています。
まとめ
「20軒の造り酒屋」「2012年に途絶えた最後の一軒」——八王子の酒をめぐる語りには、裏付けの薄い通説が数多く紛れ込んでいます。しかし一次資料をたどれば、大正15年創業の小澤酒造場が今も「桑乃都」を造り続け、2010年に幕を閉じた中島酒造場の記憶と並んで、2023年には都市型醸造所「東京八王子酒造」が新たに立ち上がったという、通説とは異なる輪郭が浮かび上がってきます。廃業した蔵、生き残った蔵、新しく生まれた蔵——それぞれの時期も背景も一様ではなく、ひとつの物語に単純化してしまうことのほうが、実はこの土地の酒の歴史を見えにくくしているのかもしれません。扇状地の湧水が織物のまちを育てたように、地下水は静かに、酒のまちとしての八王子をも支え続けてきたのです。
参考文献
八王子市公式ホームページ「八王子の湧水 -湧水ネックレス-」 / はちぷろ(八王子酒造りプロジェクト)「八王子で酒づくりを行う理由」 / 日本酒物語「中島酒造場(なかじましゅぞうじょう)|東京都八王子市の酒蔵」 / コンタツ株式会社「ふるさと蔵元紀行 東京 (有)中島酒造場」 / 小澤酒造場公式サイト「香り高くふくよかな味わい『桑乃都』」 / 東京都酒造組合「蔵元一覧」 / SAKE Street「東京都八王子市に新たな日本酒醸造蔵が誕生。」 / Sake World「東京・八王子に新しい日本酒醸造所『東京八王子酒造』が誕生」
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