八王子権現 —— 牛頭天王と八人の王子が、なぜ市の名前になったか
「八王子」という地名は、牛頭天王とその8人の王子を祀る八王子権現信仰に由来するとされています。延喜の昔の創建伝承から戦国期の八王子城、明治の神仏分離を経て、なぜこの名が今も市の名前として残っているのかを一次資料でたどります。

この記事の目次
「八王子」という地名は、実は東京都八王子市だけのものではありません。埼玉県、新潟県、愛知県など、全国各地に同じ名前の土地が点在しています。なぜこの土地の名は「八王子」なのか、そして数ある同名の地の中で、なぜここだけが人口約56万人の大都市の名として残ったのか。そのたどり方をひもとくと、ひとりの学僧の修行伝説から、戦国大名の信仰、明治政府の神社改革まで、意外なほど遠くまで話がつながっていきます。
連載「桑都の風土記」第12回|この連載をまとめて読む
全国に散らばる「八王子」という名
「八王子」という地名を検索すると、東京都八王子市のほかにも、埼玉県や新潟県、愛知県など、全国各地でこの名を冠した土地に行き当たります。これは偶然の一致ではありません。牛頭天王(ごずてんのう)とその8人の王子を祀る信仰が各地に広まる中で、「八王子権現社」「八王子神社」がそれぞれの土地に建立され、その社名がそのまま地名として定着していったためとされています。
東京都八王子市の場合、その起源は市内元八王子町、深沢山(現在の八王子城跡)に鎮座する八王子神社、旧称・八王子権現社にさかのぼるとされています。つまり「八王子」という市名は、もともとひとつの神社の名前だったということになります。各地の「八王子」の中でも、東京都八王子市は後述する北条氏照による築城と戦国期の攻防という大きな出来事と結びついたことで、地名としての知名度や規模が突出した例だと説明されています。全国に同じ名を持つ土地がいくつもある中で、なぜこの深沢山の社だけが、後に人口56万人規模の都市の名として残ることになったのか。その答えを知るには、まずこの社がどのように生まれたとされているのかを見ていく必要があります。
延喜の昔、深沢山に起きたという奇譚
八王子権現の創建は、延喜13年(913年)秋にさかのぼる伝承として語られています。京都から来た学僧・妙行(みょうぎょう)が、深沢山の山頂近くの岩窟にこもって修行を始めたというのが、その出発点です。修行中の妙行は、鬼や大蛇などさまざまな怪異に遭遇し、これらを法力で鎮めたと伝えられています。
そしてその後、牛頭天王と名乗る神が8人の童子(王子)を伴って出現し、この地にとどまるよう告げたといいます。妙行はこれを受け、延喜16年(916年)3月15日、深沢山を「天王峰」、周囲の8つの峰を「八王峰」と定め、それぞれに牛頭天王と八人の王子を祀る社を建立しました。これが八王子信仰の始まりとされています。
さらに天慶2年(939年)には、妙行の功績が朱雀天皇の耳に達し、「華厳菩薩」の号を賜ったと伝えられ、あわせて寺号も「牛頭山神護寺」と改められたといいます。ただし、この創建伝承はいずれも寺社側の縁起・由緒として伝わるものであり、平安時代当時の同時代史料による裏付けは確認されていません。913年、916年、939年という年号は、いずれも後代に成立した縁起に基づく伝承年代として扱う必要があります。
牛頭天王とは何者か —— 決着しない起源論争
そもそも、この牛頭天王とはどのような神なのでしょうか。一般向けの解説では、インドの祇園精舎の守護神に由来し、中国を経て日本に伝わった神格だと説明されることがよくあります。牛頭天王は薬師如来を本地仏とし、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身とも位置づけられてきました。
ところが学術的な整理に目を向けると、話はそう単純ではありません。伝播経路とされる朝鮮半島や中国においても、「牛頭天王」に相当する神格を信仰した痕跡は確認されておらず、日本国内で独自に形成された神格である可能性が高いとされています。起源説としては、祇園精舎の守護神とする仏教伝来説のほか、朝鮮半島の「牛頭山」に由来し渡来人を経由したとする説、古代日本の渡来神・農耕神を仏教・道教的に再解釈した習合神格とする説が並び立っており、いまだ決着していません。
牛頭天王は「蘇民将来(そみんしょうらい)」説話とも結びついています。武塔天神(むとうてんじん、牛頭天王と同一視される神)が、貧しいながらも一夜の宿を貸してくれた蘇民将来に疫病除けの法を授けたという説話で、正月に「蘇民将来子孫也」と記した護符(蘇民将来符)を配る風習の起源とされています。この護符の頒布は、遅くとも室町時代後期には各地の八日堂縁日等ですでに行われていたと推測されています。中世以降、牛頭天王の8人の子である八王子は眷属神(けんぞくしん)とされ、方位・吉凶を司る神として全国に信仰が広がっていったといいます。
肝心の「八人の王子」の名前についても、単一の答えがあるわけではありません。参照する文献によって表記が異なり、複数の異伝が併存しています。陰陽道系の文献では大歳神・大将軍神・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神と呼ばれ、『祇園牛頭天王縁起』では相光・魔王・倶魔良・徳達神・羅侍・達尼漢・侍神相・宅相神とされています。名称こそ異なりますが、同じ王子を指す異表記とみられています。起源そのものが定まらないまま、それでもこれほど広く各地に根を張った信仰だったということです。
北条氏照、八王子城に権現を祀る
深沢山の権現社が、地名として決定的な位置を占めるようになったのは、戦国時代のことです。天正6年(1578年)、小田原北条氏の北条氏照(ほうじょううじてる)が、この深沢山に八王子城を築城するにあたり、山中に鎮座していた八王子権現社を城の守護神として尊崇しました。
八王子城は標高約460メートル、比高約240メートルの深沢山に築かれた中世山城で、山頂に本丸が置かれ、周囲に「曲輪(くるわ)」と呼ばれる平場が配置される要害でした。城の名は、山中に祀られていた八王子権現に由来して「八王子城」と名付けられたとされています。現在の市名「八王子」も、この社・城の名に由来するというのが通説です。信仰の対象だった山が、大名の居城となり、その名がそのまま城の名になった時点で、「八王子」という呼び名はこの地域を指す固有名詞として重みを増していったことになります。
しかしこの城の命運は長くは続きませんでした。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の一環として、八王子城は豊臣方の軍勢に攻められ落城します。この落城に伴う兵火により、八王子権現社の社殿も焼失しました。城という物理的な拠点は失われても、その名だけは、このあとも土地に残り続けることになります。
城が消えても、名前は残った
落城後、八王子権現社は再建の道をたどります。元禄年間(1688年〜1704年)、伊勢今泉出身の僧・鉄山無心(てっさんむしん)によって神像・社殿が再建されました。その後再び焼失したものの、江戸末期には現在に伝わる社殿が造営されたとされています。境内社の横地社(よこちしゃ)は、八王子城本丸を守っていたと伝わる横田監物(よこたけんもつ)を祀る社で、落ち延びた先の奥多摩町で祀られていたものが、ダム建設に伴い現在地へ移されたものだといいます。
大きな転機は明治維新後に訪れました。神仏分離令(1868年)により、全国の神社は「日本神話に基づく神」を祭神とすることが求められ、牛頭天王を祀っていた社の多くで祭神の名称・組み合わせが変更されます。牛頭天王は、習合先とされていた素戔嗚尊に、后神・頗梨采女(はりさいにょ)は櫛稲田姫(くしなだひめ)に、それぞれ改められました。八人の王子についても、素戔嗚尊と天照大御神(あまてらすおおみかみ)の誓約(うけい)によって生まれたとされる五男三女神に置き換えられています。
信仰の姿かたちは、こうして時代ごとに書き換えられてきました。それでも、深沢山に社があったという事実、そしてそこから「八王子」という呼び名が生まれたという歴史の流れそのものは、書き換えられることなく今に伝わっています。現在、八王子神社は八王子城跡の要害地区内に鎮座し、地元の人々によって守られています。全国に散らばる同名の土地の中で、この深沢山の社だけが、56万人都市の名として今も生き続けているのです。
まとめ
「八王子」という地名は、牛頭天王とその8人の王子を祀った八王子権現信仰にさかのぼります。延喜の昔の創建伝承、戦国期の北条氏照による八王子城築城、落城と再建、そして明治の神仏分離。時代ごとに信仰の姿は変わりながらも、深沢山に社があったという事実だけは一貫して残り続けました。全国各地に同じ名の土地がある中で、この地だけが今も市の名として名を残しているのは、そうした積み重ねの結果だといえます。
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連載「桑都の風土記」は、八王子の地形・信仰・産業にまつわる史跡や伝承を一つずつたどるシリーズです。
- 前の回: 絹の道と鑓水商人
- この連載をまとめて読む: 高尾山の修験道
参考文献
この記事は連載「桑都の風土記」第12話です
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