八王子まつりの山車彫刻 —— 宮彫りの技と祭礼文化
江戸時代より続く二つの氏子圏の祭礼が融合して生まれた八王子まつり。本稿では、その歴史と宮彫りの名匠・佐藤光重らが手がけた彫刻山車の魅力に迫ります。

この記事の目次
概要
甲州街道を舞台に繰り広げられる八王子まつりは、関東屈指の山車(だし)祭りとして知られています。 祭礼を彩る絢爛(けんらん)豪華な山車には、精巧な宮彫(みやぼ)り彫刻が施されており、人々を魅了します。 本稿では、山車が歩んできた歴史や精巧な彫刻の技法、それらを支えた職人たちの軌跡に迫ります。
上の祭りと下の祭り —— 二つの氏子圏が育てた300年
八王子まつりの起源は、江戸時代から続く二つの独立した氏子圏(うじこけん)の祭礼にさかのぼります。 現在の国道16号を境に、西側が多賀(たが)神社、東側が八幡八雲(はちまんはちぐも)神社の氏子地域です。 西側の多賀神社の祭礼は上の(かみの)祭り、東側の八幡八雲神社の祭礼は下の(しもの)祭りと呼ばれました。 多賀神社は鎌倉時代、八幡八雲神社は924年(延長2年)に起源をもつとされる歴史ある神社です。
両祭りともに300年ほどの歴史があり、江戸時代の1716〜1735年(享保年間)から山車がひかれ始めました。 この享保年間と呼ばれる頃から、それぞれの地域において町内同士の競い合いが始まります。 町の人々の経済力が高まるにつれて、各町内は意匠を凝らした豪華な山車を作るようになりました。
市民祭から「八王子まつり」へ —— 昭和43年の統合
現在の祭りの枠組みは、1961年(昭和36年)8月26日に始まった市民祭を出発点としています。 当初は「3万人の夕涼み」と称し、富士森(ふじもり)市民競技場での花火などが中心の行事でした。 この市民祭は、人口急増期の八王子において旧住民と新住民の結びつきを強めるために企画されます。 1964年(昭和39年)の第4回からは会場を甲州街道に移し、パレードを盛大に行うようになりました。
1966年(昭和41年)の市民祭で山車が初めて参加し、1968年(昭和43年)に八王子まつりへ改称します。 この改称と同年に、古くから別々だった上の祭りと下の祭りの山車巡行が正式に統合されました。
2002年(平成14年)には山車中心の祭りに再編され、翌年には地域伝統芸能大賞を受賞しました。 近年ではかつての伝統を重視し、山車巡行を上地区と下地区に分けて行う運用が取られています。 祭りの見どころである多賀神社の大神輿(おおみこし)は、1882年(明治15年)に浅草で作られました。 この大神輿は重さが約3,700kgあり、関東有数の大きさを誇る山車巡行と並ぶ主役となっています。
電線が生んだ彫刻山車 —— 人形山車から鉾台・堂宮構造へ
山車は、高い所から訪れる神様を迎えて祭りの場へ運ぶための美しい屋台としての役割を持ちます。 初期の型式は、中心に心柱(しんばしら)を立てて上部の岩座に人形を飾る人形山車(にんぎょうだし)でした。 しかし、明治後期から大正期にかけて街中に電線が架設されたことで、山車の型式は変化を迫られます。 背の高い人形山車では電線に阻まれるため、巡行が可能な新しい型式の山車が考案されました。
こうして誕生したのが、高さを抑えた二層や三層の鉾台(ほこだい)構造や、社殿を模した堂宮(どうみや)構造です。 堂宮構造は入母屋八つ棟(いりもややつむね)造りなどを模し、屋根の金箔や格子の装飾が特徴です。 ただし、この彫刻山車という様式が成立した時期については、資料間で記述が一致していません。 江戸中期とする説と大正期とする説があります。
八王子の山車は、竜や花、人物などの細かい宮彫り彫刻が全体に組み込まれている点が特徴です。 これらは当時を代表する宮大工や、東京の名匠として知られた彫刻師などの職人たちにより作られました。 大火で焼失するたびに、町の人々が資金を出し合って山車を再建してきた歴史も息づいています。
宮彫りの匠たち —— 彫刻師・佐藤光重と職人群像
八王子の山車彫刻を語る上で欠かせない存在が、大正から昭和期にかけて活躍した佐藤光重(さとうみつしげ)です。 光重は元横山町の山車彫刻などを手がけ、その卓越した技法は今も山車の中で異彩を放っています。 しかし、光重の出身地や師系などの正確な経歴については、現時点で確かな情報が得られていません。 千葉県佐原の祭礼彫刻ブログなどとの混同も指摘されており、本稿では出身地・師系の記述は採用していません。
光重と組んで多くの山車を手がけた工匠が、小澤美之吉です。 彼らは1919年(大正8年)に、車大工の棒定(ぼうさだ)らと二層鉾台形式の山車を建造しました。 この山車には、光重が制作した白亜の「諫鼓鳥(かんこどり)」と呼ばれる山車人形が飾られています。
さらに彼らは、1922年(大正11年)に入母屋八つ棟造りの豪華な堂宮形式の山車も建造しました。 また、1927年(昭和2年)ごろには池田信之らと三層鉾台形式を造ります。
空襲を越えて —— 焼失と再建、文化財としての山車
1945年(昭和20年)の八王子空襲は、伝統ある多くの山車を灰塵(かいじん)に帰す甚大な被害をもたらしました。 この空襲における正確な山車の焼失台数については、現在も確定的な情報が得られていません。 一部には8台が焼失したとする資料もありますが、一次史料での裏付けは未確認です。 戦後、町の人々による熱意と努力によって山車は再建され、現在の計19台の山車巡行へとつながりました。
現在、八王子まつりに登場する山車のうち12台が、八王子市の指定有形文化財に指定されています。 三崎町や中町、元横山町などの山車に加え、横山町三丁目の山車人形などが指定を受けています。 ただし、文化財の正確な指定件数やその内訳については、資料間で記述の差異が見受けられます。
八王子の曳山(ひきやま)や彫刻に関する専門的な研究書としては、相原悦夫の著作があります。 しかし、それらの書籍の具体的な記述内容については、現時点で現物の確認ができていません。
まとめ
八王子まつりの山車彫刻は、300年の歴史を持つ上の祭りと下の祭りの融合から生まれた独自の文化です。 電線架設に伴う型式の変化や空襲の被害を乗り越え、職人たちの宮彫りの技術が山車に刻み込まれました。 佐藤光重をはじめとする匠の技と、再建に奔走した市民の熱意が、現代のきらびやかな祭礼を支えています。 歴史の波をくぐり抜けてきた彫刻山車は、桑都の魂と伝統の技を未来へ語り継ぐ貴重な遺産と言えるでしょう。
参考文献
八王子市立図書館「八王子 まつりと山車」 / 八王子市公式HP「はちおうじ物語其の十 主な構成文化財」 / 日本遺産ポータルサイト「上の祭り・下の祭り(八王子まつり)」 / 八王子まつり公式サイト「八王子まつりについて」「山車・神輿(下地区)」 / Wikipedia「八王子まつり」 / 智慧の燈火オンライン「関東屈指の山車祭り『八王子まつり』」
物価高対応子育て応援手当と桑都のまち応援給付金 —— 八王子市で並走する二つの物価高対策を整理する
Support
※ Stripe決済(合同会社月香が運営)で安全にお支払いいただけます






