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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.07.22 · 7分で読めます

浅川の砂利と鉄道 —— 多摩の骨材が東京を建てた

多摩川・浅川流域で採れた砂利は、明治の鉄道開通から関東大震災後の東京復興までを支える骨材だった。その輸送のために発達した八王子の鉄道網の歴史を一次資料からたどります。

木のテーブルに積み重ねられた装丁の古い書物

浅川が育てたのは織物だけではありません。多摩川水系のもう一つの恵み——川底に眠る砂利は、明治の鉄道開通から関東大震災後の東京復興まで、近代日本の建設現場を下支えする資材でした。そして、その砂利を運ぶために敷かれた鉄道網が、八王子という街の骨格そのものをつくっていきます。水が紡いだ織物の物語の裏側で、石が敷いた鉄路の物語をたどります。


新橋と横浜を結んだ砂利

多摩川で砂利が採られるようになったのは、江戸時代にさかのぼるとされています。江戸城下の造成などに使われたと伝わり、川原の石は古くから土木資材としての価値を持っていました。

その価値が飛躍的に高まったのが、明治の鉄道開業です。1872年(明治5年)に開業した日本最初の鉄道、新橋〜横浜間の砕石にも、多摩川産の砂利が使われたとされています。鉄道は線路を支える路盤に大量の砕石(バラスト)を必要とし、その需要は鉄道網が伸びるほど膨らんでいきました。もっとも当初の採掘は人力に頼る重労働で、1日1人あたりの採取量はおよそ4〜5平方メートル程度が限界だったと記録されています。川に入り、素手同然の道具で石をすくい上げる作業が、後の巨大な砂利鉄道網の出発点だったことになります。

この需要に応える形で、1892年(明治25年)、甲武鉄道が多摩川からの砂利運搬を目的とした路線を敷設します。これが多摩川流域における「砂利鉄道」の先駆けとなりました。鉄道が砂利を運ぶために鉄道を敷く——この循環が、以後数十年にわたって多摩川沿いの鉄道史を動かしていきます。


「砂利鉄道」の時代 —— 多摩川に集まった鉄道会社

甲武鉄道に続き、複数の鉄道会社・電気鉄道会社が、多摩川流域の砂利輸送を目的として、あるいは砂利輸送を主要な収入源として路線を敷設・延伸していきました。

現在の東急電鉄の前身の一つである玉川電気鉄道は、1907年(明治40年)に渋谷〜二子玉川間を開通させ、多摩川の砂利輸送を主要事業の一つとしました。1910年(明治43年)には、その名の通り砂利輸送を目的とした専業的な鉄道「東京砂利鉄道」が開業します。1916年(大正5年)には京王電気軌道が調布〜多摩川原間を開通させ、多摩川の砂利採取地へのアクセス路線としての性格を持たせました。さらに1922年(大正11年)、現在の西武多摩川線の前身にあたる多摩鉄道が開業します。

わずか30年ほどの間に、これほど多くの鉄道が同じ川を目指して敷かれた背景には、砂利という資材が持つ経済的な重みがありました。旅客輸送ではなく貨物輸送、しかも川底から掘り出したばかりの重い石を運ぶことが、鉄道会社の経営を成り立たせるだけの需要になっていたのです。


関東大震災が押し上げた砂利需要

その需要が一気に跳ね上がったのが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でした。震災後の東京では、帝都復興事業のもとで鉄筋コンクリート造の建物が急速に普及し、コンクリートの骨材となる砂利の需要が飛躍的に増大します。隅田川に架けられた「復興橋」と呼ばれる鉄橋群など、震災復興のシンボル的な土木事業にも、多摩川産の骨材が使われたと考えられています。

復興を主導したのは帝都復興院、のちの内務省復興局です。幹線道路や橋梁、上下水道、区画整理といった大規模なインフラ整備が次々と進められ、これらの資材としても砂利・砕石が大量に必要とされました。需要の急増に応じて多摩川の砂利採取は機械化が進み、採取量は大幅に増加します。最盛期には大小200あまりの業者が砂利採掘に従事し、数千人規模の労働者が携わっていたと記録されています。

震災という一つの出来事が、川底の石を運ぶ産業をここまで巨大化させた——多摩川の砂利鉄道史のなかでも、この時期はもっとも激しい成長期だったといえます。


浅川流域、鉄道網の結節点として

ここで目を八王子に転じます。浅川本流そのものから採取された砂利が、東京都心部の建設資材として大量に運び出されたことを直接示す記録は、今回確認できた範囲では見つかっていません。浅川は多摩川の支流であるため、多摩川水系の骨材供給網の一部として語られることはあっても、浅川固有の採取量や採取業者、輸送記録は限定的です。

ただし、浅川流域=八王子が、多摩川水系の骨材供給網と密接に結びついた鉄道網の結節点として発展したことは、鉄道史の年表がはっきりと示しています。

まず1889年(明治22年)、甲武鉄道が開通します。同年4月に新宿〜立川間、8月には立川〜八王子間が開業し、八王子は東京西部の鉄道網に組み込まれました。続いて1901年(明治34年)、官設鉄道が八王子〜上野原間で開業すると、現在の八王子駅付近に駅が移転すると同時に「浅川駅」——現在のJR高尾駅——が開業します。この時期、浅川流域には煉瓦造の鉄道構造物が多数建設され、「第一浅川架道橋」など当時の煉瓦建造物が今も残っています。

さらに1931年(昭和6年)3月20日、京王電気軌道の御陵線が北野〜御陵前間で開業しました。大正天皇が埋葬された多摩御陵への参拝アクセス路線として計画されたもので、当初は八王子市街地を経由する北回り案の軌道特許を取得していましたが、市街地が路線で分断されるとして八王子市議会が反対し、用地買収も難航したため、南回り案に変更された経緯があります。1936年(昭和11年)には、その参道にふさわしい意匠として、コンクリートアーチ式の南浅川橋が架設されました。

砂利を運ぶ鉄道が多摩川の下流を走り回っていた同じ時代、上流の浅川では、御陵参拝という別の目的のために鉄道が敷かれていた。目的は違っても、どちらも「鉄道が地形と資材を結びつける」という近代化のかたちを体現していた点で、同じ物語の延長線上にあります。

鉄道が建設資材そのものを地元にもたらした例もあります。1897年(明治30年)、由井村西長沼(現・八王子市内)で八王子煉瓦製造会社が操業を開始しました。甲武鉄道の建設・拡張に伴う煉瓦需要を背景に設立されたとみられ、1907年(明治40年)に関東煉瓦へ売却された後、1912年(明治45年・大正元年)には大阪窯業が買収して「八王子工場」となります。1932年(昭和7年)の火災で閉鎖するまで、この工場は鉄道構造物を支える煉瓦を焼き続けました。

鉄道が資材の需要を生み、その需要が地元に新しい産業を呼び込む——砂利鉄道と同じ循環が、浅川流域でも別の資材を通じて起きていたことになります。多摩川本流では川底の石そのものが資材になり、浅川流域では土を焼いた煉瓦が資材になった。資材の中身は違っても、どちらも鉄道の拡張という同じ原動力から生まれた産業でした。

鉄道の拡張は、街そのものの成長とも重なっていました。1917年(大正6年)、八王子は東京府内で東京市に次ぐ2番目の市制を施行します。織物工場の進出などで人口が増加していた時期であり、鉄道網の充実がその成長を後押しした側面もうかがえます。


採取の終焉、そして今に残る痕跡

砂利採取の勢いは、しかし永遠には続きませんでした。無秩序な採取は河床の低下や護岸の損壊といった弊害を各地で引き起こし、規制が段階的に強められていきます。1934年(昭和9年)には川崎市宿河原地区での採取が禁止され、1962年(昭和37年)には多摩川流域に採取禁止区域が指定されました。そして1965年(昭和40年)、多摩川での砂利採取は全面的に禁止されます。

1968年(昭和43年)には砂利採取法(昭和43年法律第74号)が制定され、都道府県知事の認可を要する採取計画制度が整えられました。これが現在まで続く砂利採取の法的枠組みの基礎になっています。

採掘後に放置された跡地は「砂利穴」と呼ばれ、水がたまって近隣住民の水遊び場代わりに利用された例もありました。府中市是政の多摩川競艇場は、もとは巨大な砂利穴だった場所とされています。

浅川流域の鉄道もまた、時代の波にさらされました。御陵線は1945年(昭和20年)、太平洋戦争中に不要不急線として休止命令を受け、1964年(昭和39年)11月26日には山田〜多摩御陵前間が正式に廃止されます。その後1967年(昭和42年)10月1日、北野〜山田間が高尾線として復活し、現在の京王高尾線につながっていきます。

砂利を運んだ鉄道の多くはすでに姿を消し、あるいは役割を変えました。それでも、南浅川橋のコンクリートアーチや第一浅川架道橋の煉瓦は、砂利と鉄道がこの地域の近代化を支えた時代の輪郭を、今もかたちとして留めています。


まとめ

多摩川の砂利は、新橋〜横浜間の鉄道から関東大震災後の帝都復興まで、近代東京の建設を陰で支えた資材でした。その輸送のために甲武鉄道や玉川電気鉄道など複数の鉄道会社が多摩川沿いに路線を延ばし、「砂利鉄道」と呼ばれる時代を築きます。浅川流域そのものの砂利採取記録は限定的ですが、八王子は同じ時代、甲武鉄道の開通や御陵線の敷設によって鉄道網の結節点へと成長しました。織物が水と湿度に育まれたのに対し、この街のもう一つの近代化は、石と鉄路によって刻まれていたのです。

今、南浅川橋や第一浅川架道橋を渡るとき、そこに使われた石やレンガがどこから来たのかまで意識することは少ないかもしれません。それでも、明治から昭和にかけての鉄道拡張の裏に、多摩川水系の骨材供給網という大きな物語があったことを知ると、見慣れた橋や線路の見え方は少し変わってきます。


参考文献

アーバンライフ東京「関東大震災の復興を支えた多摩川『砂利鉄道』と今も残る『砂利穴』とは」 / このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)「3:明治期の八王子」「4:大正〜昭和戦前期の八王子」 / 南浅川橋|八王子市公式ホームページ / アジア歴史資料センター「知っていましたか?近代日本のこんな歴史|帝都再建〜関東大震災からの復興〜」 / 関東地方整備局「砂利等の採取に関する規制計画及び特定採取計画」

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。