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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.09.06 · 更新: 2026.09.14 · 7分で読めます

絹の道と鑓水商人 —— 横浜開港が拓いた交易路と、鑓水という一集落の急成長・急速な衰退

八王子市鑓水に遺る「絹の道」は、江戸期には「神奈川往還」と呼ばれた道でした。横浜開港が生んだ生糸交易の特需で、一介の山村がどう豪商の里に変わり、鉄道の登場でどう歴史の裏側へ退いていったのかを一次資料で辿ります。

和紙の繊維の質感を写した和モダンな抽象イラスト

八王子市鑓水に、御殿橋のたもとから約1.5キロメートルにわたって遺る「絹の道」という史跡があります。未舗装の区間は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれていますが、この名前で呼ばれるようになったのは、実はそう古いことではありません。江戸期には「神奈川往還」あるいは「浜街道」と呼ばれていたこの道が、なぜ「絹」の名を冠することになったのか。そして、この道沿いにあった鑓水という小さな山村が、なぜわずかな期間で豪商の里へと姿を変え、また急速にその繁栄を失っていったのか。一次資料をたどると、開港というひとつの出来事が地方の一集落をどう変えたかが見えてきます。

連載「桑都の風土記」第11回|この連載をまとめて読む


「絹の道」という名は、実は新しい呼び名だった

現在「絹の道」と呼ばれている道は、江戸時代には「神奈川往還」または「浜街道」という名で呼ばれていました。八王子の中心部から鑓水を経て横浜へ至るこのルートに「絹の道」という呼び名が与えられたのは、昭和32年(1957年)のことです。郷土史家の橋本義夫がこの地に「絹の道碑」を建立し、その名が定着していきました。つまり「絹の道」は、道が現役だった時代の呼び名ではなく、その役割を終えたのちに与えられた、いわば追贈の名前だったことになります。

現在、御殿橋のたもとから絹の道碑の前までの約1.5キロメートルが、八王子市の史跡に指定されています。このうち特に昔の面影をよく残す未舗装区間は、文化庁が選定した「歴史の道百選」にも名を連ねています。舗装されず土のまま残された道が、かつてどれほどの賑わいを見せていたのか。それを知るには、まず横浜開港という出来事にさかのぼる必要があります。


横浜開港が生んだ交易路

安政6年(1859年)、横浜が開港しました。この出来事は、鑓水という一集落にとって新時代の始まりを意味していました。幕末の外国人遊歩規定では、外国人が自由に行き来できる範囲が「開港場から10里(約40キロメートル)以内」と定められており、鑓水はちょうどこの圏内に位置していたのです。日本の養蚕・製糸に強い関心を寄せていた西洋人商人たちにとって、鑓水を含む八王子周辺は早くから注目の対象となりました。

八王子周辺、つまり多摩や武蔵の各地で生産された生糸は、まず八王子宿に集められました。そこから浜街道、のちの絹の道を経由して横浜へと運ばれていったのです。開港からわずかな期間で、この道は生糸を運ぶ大動脈へと姿を変えました。

道を行き交ったのは、生糸だけではありません。生糸商人たちを介して、横浜で見聞きした西洋の文物や風俗が八王子側にも伝わっていったとされています。実際にこの浜街道を通過した西洋人として記録に残る人物の顔ぶれも、決して小粒ではありません。トロイア遺跡の発掘で知られる考古学者ハインリヒ・シュリーマン、幕末日本を数多く撮影した写真家フェリックス・ベアト、そしてスイス人商人カスパー・ブレンワルド。彼らの名がこの道の歴史に刻まれていること自体が、開港がもたらした変化の大きさを物語っています。


一夜にして生まれた「鑓水商人」たちの栄華

生糸交易が生んだ富は、鑓水という土地そのものの姿を一変させました。谷戸に囲まれたこの集落は、もとは農業と養蚕を生業とする、ごくありふれた山村にすぎませんでした。しかし生糸取引によって短期間のうちに巨額の富を築いた地元商人たちが現れ、彼らは「鑓水商人」と呼ばれるようになります。平本平兵衛、八木下要右衛門、大塚徳左衛門、大塚五郎吉といった名が、今にその存在を伝えています。

なかでも八木下要右衛門は、見事な石垣を築いたことから「鑓水の石垣大尽」と呼ばれるほどの財を成しました。その屋敷跡は、現在「絹の道資料館」が建つ敷地にあたります。屋敷には書院が設けられ、八王子を訪れた外国人をもてなす場としても機能していたことから、「異人館」という異名でも呼ばれていたといいます。

山村の一商人が、外国人をもてなす書院付きの屋敷を構えるまでになる。この急成長ぶりは、開港という外的な出来事が、地方の一集落の暮らしをいかに劇的に変えうるかを示す好例といえるでしょう。谷戸に囲まれた小さな村にすぎなかった鑓水が、わずかな期間で異人をもてなす豪商の里へと姿を変えた背景には、生糸という一つの商品をめぐる国際的な需要の急拡大がありました。しかし、この繁栄は長くは続きませんでした。


鉄道が奪った街道の役割

鑓水商人たちが短期間で富を築けた最大の要因は、横浜開港直後に生じた生糸相場の急騰でした。これは裏を返せば、特需的な側面が強い繁栄だったということでもあります。実際、明治中期に鉄道――現在のJR横浜線・中央線にあたるルート――が整備され、生糸輸送の主力が陸路の鉄道へと移っていくと、街道としての絹の道は急速にその役割を終えていきました。

道の衰退を象徴する存在が、峠の最高地点にあった道了堂です。もともとは鑓水商人たちによって、旅人と村内の安全を祈願する堂として建立され、絹の道の中継地として賑わったと伝えられています。

しかし後年になると堂守が置かれなくなって無住となり、堂宇は荒廃していきました。荒れ果てた堂は、その後取り壊されています。開港特需という一過性の追い風によって生まれた繁栄が、鉄道という別のインフラの登場によって、わずか数十年のうちに歴史の裏側へと退いていく。この道了堂の運命は、まさにその縮図でした。

道が生糸輸送の街道として機能していた時代の記憶は、道了堂だけに残っているわけではありません。沿道には、当時の暮らしや信仰を伝える建造物がいくつも遺されています。たとえば小泉家屋敷は、明治11年(1878年)に再建された養蚕農家の建築で、鑓水地域の養蚕農家がどのような暮らしをしていたかを今に伝えています。街道からわずかに入った永泉寺は、天正元年(1573年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院で、明治17年(1884年)の火災ののちに現在地へ移築されました。

生糸交易で財を成した鑓水商人たちの信仰の厚さは、諏訪神社にも刻まれています。この神社は明治10年(1877年)に複数の社をまとめる形で再編され、鑓水商人による石灯籠の寄進が今も伝わっています。街道を歩いた人々の足元には、慶応元年(1865年)に建てられた八王子道の道標も残されていました。養蚕農家の屋敷、火災を越えて移築された寺、商人が寄進した石灯籠、そして幕末に建てられた道標。それぞれ由来は異なりますが、いずれも絹の道が最も賑わっていた時期の空気を伝える証人だといえます。


峠の堂の跡地と、今に残る絹の道

役割を終えた道了堂の跡地は、その後どうなったのでしょうか。八王子市は平成2年(1990年)、この跡地を整備し、大塚山公園として生まれ変わらせました。

同じ平成2年3月には、もう一つの動きもありました。八木下要右衛門の屋敷跡に、絹の道資料館が開館したのです。この建物は、街道に面していた見事な石垣を保存・活用しつつ、養蚕農家の意匠を参考にして設計されました。史跡建造物をそのまま復元したものではなく、当時の雰囲気を伝えるために新築された資料館だという点は、押さえておきたいところです。

平屋建てでありながら天井高は約10メートルに達し、館内には絹の道や養蚕、製糸に関する資料が展示されているほか、屋敷跡に残る土蔵や水路の遺構も敷地内に統合されています。入館は無料で、開館時間は季節によって異なり、3月から10月は午前9時から午後5時まで、11月から2月は午前9時から午後4時30分までとなっています。ボランティアによる機織りや繭細工の実演日も設けられており、平成2年の開館から現在に至るまで、この場所を通じた地域の歴史普及活動が続けられてきました。2018年には八王子市による「文化財ウォーキングツアー」が鑓水地域で実施されるなど、資料館の開館は一過性のイベントに終わらず、継続的な取り組みへとつながっています。

絹の道の一部――御殿橋から絹の道碑までの約1.5キロメートル――は、現在も八王子市の史跡として大切に保全されています。そして今、この道は往時とはまったく異なる役割を担っています。長沼公園と組み合わせた周回コースなど、八王子近郊の人気ハイキングコースとして親しまれているのです。東京ハイキング協会は2026年6月にも、この絹の道で例会を実施しました。生糸を運ぶ交易路としての役目を終えてから160年以上が経ったいまも、多くの人がこの土の道を歩いています。


まとめ

「絹の道」という名前そのものが、道が現役だった時代ではなく、役割を終えたのちに与えられたものでした。安政6年(1859年)の横浜開港が生んだ生糸交易の特需は、鑓水という一介の山村を短期間で豪商の里に変え、そして明治中期の鉄道整備という別のインフラの登場が、その繁栄を静かに終わらせていきました。峠にあった道了堂が荒廃し取り壊された経緯も、この盛衰の大きな流れの一部です。

跡地に整備された大塚山公園と絹の道資料館、そして未舗装のまま保全された史跡区間を歩けば、開港という一つの出来事が地方の一集落をどう変えたか、その足跡を今もたどることができます。


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連載「桑都の風土記」は、八王子の土地に刻まれた信仰・地形・歴史を、史料と伝承を区別しながら掘り起こすシリーズです。


参考文献

この記事は連載「桑都の風土記」第11話です (全16話・更新中)

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暮らしと法律 · 8分

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。