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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.09.01 · 更新: 2026.09.14 · 7分で読めます

八王子に富士山が3つある —— 富士講が刻んだ「富士塚」とだんご祭り

木のテーブルに積み重ねられた装丁の古い書物

八王子市台町の富士森公園には、実際の富士山とは別に、もう一つ小さな「富士山」が築かれています。高さおよそ6メートルの塚の頂には浅間神社が祀られ、8月1日の例大祭には団子を売る露店が並びます。なぜ、この街に人工の富士山があるのでしょうか。そして、それは市内に一つだけではありません。台町、松木、加住町——3つの浅間神社をたどると、江戸時代の庶民の信仰と、それぞれの土地の歴史が見えてきます。

連載「桑都の風土記」第10回|この連載をまとめて読む


だんご祭りの賑わいから

毎年7月31日の夕方になると、八王子市台町二丁目の富士森公園には、団子を売る露店が軒を連ねます。翌8月1日の例大祭を控えた宵宮で、地元では「だんご祭り」の通称で親しまれている行事です。夏の夕暮れどきに露店の明かりが灯り、参拝客が列をなす光景は、この一帯の夏の風物詩として定着しています。

この名の由来は、明治40年(1907年)ごろにさかのぼると伝わります。当時、社頭に住み込みで宮守を務めていた人物が、神社に献じられた洗米を使って団子を作り、参拝者に分け与えたのが始まりだといいます。団子を食べると夏バテしないという言い伝えも添えられ、真夏の健康祈願を兼ねた地域行事として今日まで受け継がれてきました。

祭りの舞台となっている富士森公園は、1896年(明治29年)に開園した市内最古の公園です。野球場や陸上競技場、テニスコートが整備された現代的なスポーツ施設の一角に、江戸時代から続く信仰の痕跡が今も残っています。この公園の高台にある浅間神社と、その足元に築かれた塚こそが、これから見ていく「富士塚」です。

だんご祭りで賑わうこの場所が、なぜ「富士」の名を冠しているのか。話は江戸の庶民信仰にまでさかのぼります。


富士講とは何か —— 江戸八百八講と御縁年

富士塚を理解するには、まず「富士講」という信仰のかたちを知る必要があります。富士講とは、富士山を霊山として崇め、実際に登拝することを核とする民間信仰の講(信仰グループ)のことです。

教義の基礎を整えたのは、戦国末期から江戸初期にかけて活動した行者・長谷川角行だとされます。その後、江戸中期に食行身禄が布教を広げたことで、富士講は武士や富裕層だけでなく、庶民層にまで急速に浸透していきました。講の内部は、指導者格の「先達」、代表者格の「講元」、一般会員の「講員」という階層で構成され、定例の礼拝と、講中がまとまって富士山へ登る「講中登山」を活動の柱としていました。江戸の町では「江戸八百八講」と称されるほど、町ごとに講が存在していたと伝えられています。

こうした急速な広がりは、幕府にとって好ましいものではありませんでした。集団としての規模の大きさが、一揆や政治的不満の温床になりかねないと警戒されたためです。1742年(寛保2年)から1850年(嘉永3年)ごろまでのあいだに、幕府は実に10回にわたり富士講への禁令を出しています。裏を返せば、10回も禁令を重ねなければならないほど、富士講は繁栄し続けたということでもあります。講そのものを死罪などで弾圧するような苛烈な取り締まりには至りませんでした。

富士講には「御縁年」と呼ばれる特別な年も設けられていました。60年に一度めぐってくる庚申の年がこれにあたり、この年に登拝すると平年の33回分に相当する御利益があるとされました。通常は制限されていた女性の登山も、御縁年には緩められたと伝わります。

1860年(万延元年)の御縁年には、講の旗印である講紋を掲げた富士講の一団が、江戸の各地から大挙して富士山を目指したという記録が残っています。

富士講の年中行事の中心は、旧暦から現在は新暦7月1日にあたる「山開き」でした。富士山本宮浅間大社などでは、この日に開山祭が営まれ、神楽奉納の後、富士山に深い縁を持つ人々が拝殿に昇殿して祭儀を行い、登山者と登山道整備者の安全を祈願します。開山祭の後には、社殿裏手の「お胎内」で「お境まいり」と呼ばれる儀礼が行われ、講中が「お焚き上げ」を行う慣わしも伝えられています。

これほどの熱量を持った信仰が、なぜ八王子という一つの街に、複数の痕跡を残すことになったのでしょうか。市内に現存する3つの浅間神社を見ていくと、その広がり方の違いが見えてきます。


台町・松木・加住町 —— 3つの浅間神社、異なる創建譚

八王子市内で「浅間」「富士」を名に含む神社を確認すると、台町(富士森公園内)、松木(由木地区)、加住町(加住地区)の3社が現存しています。いずれも祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)ですが、その成り立ちは対照的です。

台町の富士塚と浅間神社は、慶長年間(1596〜1613年ごろ)に関東代官頭・大久保石見守長安が築いたと伝わります。高さ約二丈(約6メートル)、周囲六十間余り(約109メートル)の塚を築き、その頂上に駿河国の富士山本宮浅間大社から御分霊を勧請したのが起源だといいます。長安は八王子に陣屋を構え、街道と町割りを整えた代官頭として知られ(別記事「大久保長安と八王子宿の誕生」参照)、いわば行政の側から街に信仰の拠点を持ち込んだかたちになります。

この創建以来、それまで「藤森」「藤塚」と表記されていたこの一帯は、次第に「富士森」「富士塚」の字が当てられるようになっていったと伝えられています。現在の地名「富士森」は、ここに由来します。

これに対し、由木地区の松木浅間神社は、まったく異なる経緯をたどっています。室町時代初期、当時の松木村を治めていた領主・松木七郎師澄が、駿河国の富士山本宮浅間大社から勧請し創建したと伝わります。地名「松木」自体、この領主の名に由来するとされます。

境内には、市指定有形民俗文化財である松木七郎の宝篋印塔が今も保存されており、そこには永和2年(1376年)の銘が確認できます。南北朝時代にあたるこの年号は、伝承の年代そのものを直接証明するものではありませんが、松木氏がこの時代に実在し、この地に根を張っていたことを示す物証として残っています。

しかし、この神社は昭和の時代を待たずに大きな試練を迎えることになります。かつて社地には樹齢200〜300年の松の大木が茂っていましたが、明治末期以降、老木として次々に伐採されていきました。そして1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、社地は壊滅的な被害を受けました。

都市の代官が築いた台町の富士塚とは対照的に、村の領主が勧請した松木の社は、天災によって一度その姿を大きく損なわれています。現在は住宅街の小高い丘の上に、社務所と、閻魔像を祀る堂宇を構えて存続しています。


御師と講中、そして今も続く行事

富士講を支えた仕組みの一つに、「御師」と呼ばれる宗教者の存在があります。御師は富士山と信仰者のあいだを取り持ち、信仰者に代わって祈祷を行い、登山の世話をし、自らの住まいを宿坊として提供しながら富士山信仰を広める役割を担っていました。御師の住宅は各地に残されており、旧外川家住宅などは、18〜19世紀の富士講信仰の形態を伝える文化財として今も現存する例です。

食行身禄の系譜からは、丸嘉講、丸参講をはじめ、丸鳩講、不二道孝心講など、多数の講が枝分かれして組織されていったことも記録に残っています。

加住町の冨士浅間神社は、この3社のなかでもとりわけ長い年月と、一度の断絶を経験しています。境内の掲示によれば、創建は「今を距る六百余年前」と伝わりますが、正確な創建年は分かっていません。江戸期には隣接する龍源寺の持社として祀られ、現在もこの寺が管理を続けています。

しかし境内掲示には「二百余年間は遮炎廃滅した」――つまり長期間にわたって荒廃していたという記述もあります。社殿の再建に着手したのは昭和47年(1972年)のことで、そこから今日の姿へとつながってきました。春祭り(1月11日)と秋祭り(9月11日)が今も営まれています。

台町は代官による都市型の創建、松木は村の領主による在地型の創建、そして加住町は長い荒廃を経ての再建。3社の歩みはそれぞれ異なりますが、どれも江戸時代に庶民のあいだで爆発的に広がった富士講という同じ信仰から生まれている点は共通しています。

そして台町の富士塚では、8月1日の例大祭とだんご祭りが、今も変わらず地域の夏の行事として続いています。江戸の人々が講を組んで富士山を目指した情熱そのものは薄れても、団子を分け合い、夏を無事に越すことを願う営みのなかに、その名残は今も息づいています。


まとめ

八王子市内に残る3つの浅間神社は、同じ富士講という信仰から生まれながら、代官による創建、村の領主による勧請、長い荒廃からの再建と、それぞれ異なる道をたどってきました。江戸で庶民が講を組み、幕府の禁令をものともせず富士山を目指した情熱は、都市部だけでなく、代官の陣屋町であったこの八王子にも、行政と在地の両方の経路で根を下ろしていたことになります。

台町の富士塚で今も続くだんご祭りは、遠く江戸の庶民信仰から続く糸が、この街で途切れずに今日まで手渡されてきたことを示しています。松木・加住町の2社が震災や荒廃を経てなお祀られ続けている事実もまた、同じ糸の一部です。


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連載「桑都の風土記」は、八王子の土地に刻まれた信仰・地形・歴史を、史料と伝承を区別しながら掘り起こすシリーズです。


参考文献

この記事は連載「桑都の風土記」第10話です (全16話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。