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桑都の人 · 公開: 2026.09.18 · 7分で読めます

横山党と横山時兼 —— 武蔵七党随一の武士団は、なぜ姻戚のために滅んだか

八王子駅近くの「元横山町」の由来である武士団・横山党。武蔵七党最大の勢力を築きながら、当主・横山時兼は和田義盛との姻戚関係を通じて和田合戦に巻き込まれ、一族もろとも滅びた。

漢字の刻まれた風化した石碑のクローズアップ

JR八王子駅の北口から歩いて15分ほどの「元横山町」。何気ない地名ですが、ここにはかつて武蔵国最大の武士団・横山党が本拠を構えていました。鎌倉幕府の御家人として頼朝の挙兵にいち早く駆けつけ、最盛期には70氏族を傘下に置いたとされるこの一族は、しかしわずか一度の合戦で歴史から姿を消します。滅亡のきっかけは、敵の攻撃でも失政でもなく、ある有力御家人との姻戚関係でした。八王子城や千人同心より数百年さかのぼる、桑都の中世史をたどります。

連載「桑都人物誌」第16回|この連載をまとめて読む


「元横山町」に眠る武士団 —— 武蔵七党随一の横山党

八王子市の中心市街地、JR八王子駅北口から徒歩約15分の元横山町一帯は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武士団「横山党」が本拠を置いた土地です。横山党は、武蔵国を中心に在地武士たちが構成した同族的武士団「武蔵七党」のひとつで、本拠地は武蔵国多摩郡横山庄と呼ばれていました。

その勢力の広がりは、七党の中でも際立っていました。武蔵国内にとどまらず、上野国(現在の群馬県)、相模国(現在の神奈川県相模原市・愛甲郡)、甲斐国(現在の山梨県上野原市)にまで庶流の勢力が及び、傘下は横山・小野・目黒・海老名など70氏族に達したとされています。武蔵七党の中でも最大勢力と評される所以です。


小野氏から横山氏へ —— 牧の別当職という起源伝承

横山党の祖は、平安時代の公卿・小野篁(おの の たかむら)の後裔とされる小野氏の一族と伝えられています。延長2年(924年)、この一族が現在の元横山町の地に山城国の石清水八幡宮を勧請したことが、後の八幡八雲神社の起源になったと伝わります。石清水八幡宮は京都に鎮座し、朝廷や武家から篤く信仰されていた古社であり、その分霊を関東の地に迎えたという伝承そのものが、この一族の由緒を語るものになっています。

その後、一族はこの地を開拓して「横山村」と名づけ、朝廷へ献上する馬を育てる牧――横山庄――の管理責任者である別当職を務めるようになりました。この役目を機に、姓を小野から横山へと改めたと伝えられています。多摩丘陵一帯を古くは「横山」と呼んでいたことに由来する名称で、特定の一地点の地名にちなんだものではないとされます。

現在の八幡八雲神社の周辺には、こうした古代からの信仰と一族の由緒を伝える伝承が今も残っています。牧を管理する在地の小豪族が、やがて武蔵国有数の武士団へと育っていく――横山党の物語は、そんな地味な始まりからスタートしています。


鎌倉幕府草創期の活躍 —— 頼朝挙兵にいち早く参陣した時広・時兼父子

横山党が中央の武家政権と結びつく素地は、それより100年以上前からありました。陸奥国で起きた前九年の役(1051年〜1062年)において、横山党の武将・横山経兼(つねかね)が源頼義(みなもとの よりよし)に従軍し、戦功をあげたと伝えられています。この従軍を機に、横山氏は武蔵の在地領主から、中央の軍事貴族・源氏と主従関係を結ぶ武士団へと性格を強めていったと考えられています。

横山党が歴史の表舞台にはっきりと姿を現すのは、治承4年(1180年)です。源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた際、横山時広(ときひろ)・時兼(ときかね)父子はいち早く参陣し、軍功を立てて鎌倉幕府の御家人に列せられたと伝えられています。地方の一豪族から、新興の武家政権を支える有力御家人へ――横山党にとって最大の飛躍の瞬間でした。

当主の座を継いだ横山時兼は、小野時兼とも称しました。横山氏がもとは小野朝臣姓であったことによる呼び名です。建久元年(1190年)には頼朝の上洛に随行して右馬允(うまのじょう)に任官し、正治2年(1200年)には淡路国守護に任じられたとされています。

中央政権との結びつきを強めながら、横山党一族からは椚田氏・海老名氏・矢部氏・相原氏など多くの分家が分かれ、武蔵国内外へと所領を広げていきました。武蔵の在地武士団に過ぎなかった横山党が、遠く離れた淡路国の統治を任されるまでになったことは、当時の一族の勢威がいかに絶頂にあったかを物語っています。


和田義盛との姻戚関係 —— 時兼を巻き込んだ縁

しかしその栄華の裏で、後の破滅につながる糸が静かに結ばれていました。横山時兼は仁平3年(1153年)に生まれ、鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛(わだ よしもり)と姻戚関係を結んでいたのです。時兼の妹、あるいは娘が和田氏に嫁いだとされる系譜が伝わっています。

鎌倉幕府の草創期、有力御家人同士の婚姻は勢力基盤を固めるための常套手段でした。侍所別当という幕府の軍事・警察を統括する要職を務める和田氏との縁組みは、地方出身の横山党にとって、中央の政局に深く食い込む足がかりになったはずです。淡路国守護にまで任じられた横山時兼にとっても、この縁組みは一族の地位をさらに固める一手だったでしょう。しかし歴史は、この姻戚関係こそが横山党を滅亡へと導く引き金になったことを示しています。


和田合戦 —— 3000騎を率いた挙兵と鎌倉脱出行

建暦3年(1213年)5月、事態は動きます。鎌倉幕府の実権を握りつつあった執権・北条義時(ほうじょう よしとき)に対し、和田義盛が打倒を掲げて挙兵しました。世にいう和田合戦です。義盛は姻戚関係にあった横山時兼、そして従弟の三浦義村(みうら よしむら)らに合流を求め、北条方への対抗を図りました。

横山時兼はこれに応え、3000騎ともいわれる大軍を率いて横山党を挙げて鎌倉へ出陣します。しかし参陣予定だった腰越への到着が遅れました。さらに、合流を約していたはずの三浦義村が直前に北条方へ寝返ったことで、和田方の計画は根底から崩れます。和田・横山連合軍は鎌倉・由比ヶ浜での戦闘で北条方に大敗し、合戦の経過を記録した合戦注文によれば、和田一族13人、横山党だけで31人の名のある武将が討死したと伝えられています。


一族の終焉と、地名に遺った記憶

敗戦を悟った横山時兼は、和田常盛(義盛の子)らとともに鎌倉を脱出し、甲斐国都留郡(現在の山梨県上野原市周辺)まで落ち延びました。そして建暦3年5月4日(西暦1213年5月25日)、波加利荘の坂東山償原別所で自刃して果てます。享年61でした。

横山党が本拠としていた横山庄は、乱後、幕府政所別当の大江広元(おおえの ひろもと)に与えられ、横山氏による武蔵国内での在地支配は事実上終わりを迎えました。武蔵七党随一と謳われた武士団は、こうして一夜にして歴史の表舞台から姿を消したのです。

それでも、地名としての「横山」は今日まで生き続けています。八王子市の中心市街地に残る「元横山町」の町名は、この一族が確かにこの地に根を張っていたことを800年後の私たちに伝えています。昭和11年(1936年)9月24日には、横山党の根拠地と伝わる八幡八雲神社境内一帯が東京都の旧跡に指定され、一族の記憶を留める場所として今も残っています。

元横山町には、この一族の足跡をたどれる史跡がほかにもいくつか残っています。八幡八雲神社の境内には、和田合戦の翌年にあたる建保2年(1214年)の創建と伝わる横山神社が鎮座しています。近くの妙薬寺には、横山氏の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)「横山塔」が戦国時代の建立として残り、横山党の分家・矢部氏の拠点とされる矢部城跡も市内に伝わっています。

一族の血脈も、滅亡後に途絶えたわけではありません。横山党からは海老名・愛甲・荻野・大貫・室伏・大串・平山・古市など多くの氏族が分かれ出たとされ、鎌倉幕府創設に際して源氏方についたことから、その後も各地に所領を得て広がったと伝えられています。加賀藩(現在の石川県)の家老を務めた横山家や、出雲国・松江の美保神社の神主職を務めた家系など、全国に散らばる「横山」姓の家々が、そのルーツを横山党に求めているといいます。

今、元横山町に隣接する横山町・八日町の商店街を歩くと、八王子の中心部を貫くにぎやかな通りが広がっています。デパート戦争を経て空き店舗対策が課題になっている現在のこの一帯も、たどれば横山党が牧を治めた中世の地名を継承する地域です。武士団としての横山党は建暦3年の合戦で姿を消しましたが、その名は800年以上の時を超えて、今も八王子の街の呼び名の中に生き続けています。


まとめ

横山党は、平安末期の牧の管理者という地味な出自から、前九年の役での従軍を経て、鎌倉幕府草創期には3000騎を動かす武蔵七党随一の武士団へと駆け上がりました。しかしその勢力を支えた有力御家人・和田義盛との姻戚関係が、和田合戦という一つの戦で一族を滅亡へと追い込みます。当主・横山時兼が波加利荘で自刃してから800年以上が経ちますが、「元横山町」という地名、八幡八雲神社境内一帯の旧跡指定、そして各地に散らばる「横山」姓の家々が、この武士団がかつて八王子に本拠を置いていたことを今に伝えています。桑都人物誌シリーズがこれまで取り上げてきた八王子城の攻防や千人同心の物語より、さらに数百年さかのぼるこの中世の記憶は、八王子という土地の歴史の厚みをあらためて感じさせてくれます。


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連載「桑都人物誌」は、八王子の歴史を形づくった人物たちを一人ずつ取り上げるシリーズです。


参考文献

この記事は連載「桑都人物誌」第16話です (全20話・更新中)

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カヅキ

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桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。