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桑都の人 · 公開: 2026.10.07 · 8分で読めます

大石定久 —— 北条氏照に家を譲った最後の大石氏当主、永林寺に遺る像と由木城の謎

滝山城を追われたわけではなく、自ら家と城を娘婿・北条氏照に譲った武将・大石定久。その決断の背景と、永林寺に今も遺る居館跡・城址碑・銅像、そして「由木氏」という別名の謎を辿ります。

街道と宿場を描いた古地図風の和モダンイラスト

八王子市下柚木の永林寺、本堂裏手の高台には「大石氏居館跡」と伝わる一角があり、墓地の奥には「史蹟 由木城址」と刻まれた石碑と、ひとりの武将の銅像が立っています。大石定久(おおいしさだひさ)という人物です。合戦に敗れて城を失ったわけではありません。むしろ自ら、娘婿に家と城を譲り渡しました。なぜそんな決断をしたのか、そして譲った後の定久はどこへ消えたのか——永林寺に遺るものを手がかりに辿っていきます。

連載「桑都人物誌」第17回|この連載をまとめて読む


高月城から滝山城へ —— 大石氏、多摩進出の系譜

永林寺の由木城跡に定久の名が刻まれるまでには、二代にわたる城づくりの歴史があります。

長禄2年(1458年)、関東管領・山内上杉氏に仕えた武蔵国守護代・大石顕重(おおいしあきしげ)が、現在の八王子市高月町に高月城(たかつきじょう)を築きました。これが、大石氏による多摩地域進出の起点とされています。高月城は多摩川沿いの要衝に位置し、守護代という立場にふさわしい拠点でした。

高月城は63年間にわたって大石氏の本拠として使われました。永正18年(大永元年、1521年)、顕重の子孫にあたる大石定重(おおいしさだしげ)が新たに滝山城を築き、本拠を高月城から移します。定久はこの定重の嫡男として生まれました。生年については永正元年(1491年)とする記述もありますが、学術資料での直接の裏付けは今回確認できていません。

家督を継ぐ前の定久は、父・定重から柚木城(ゆぎじょう、由木城、現・八王子市下柚木)を預けられ、柚木城主として過ごした時期があったと伝えられています。大石氏の本拠が高月から滝山へと移る一方で、定久個人の物語は、この柚木の地から始まっていました。


柚木城主としての前半生 —— 永林寺創建という事業

柚木城主としての定久の記録は、滝山城主となった後に比べると驚くほど少なく残っています。合戦に明け暮れた武将というより、むしろ一つの寺を興した人物として、この時期の定久は記憶されています。

定久が柚木城を拠点としていた時期、現在の永林寺(八王子市下柚木4)の地に、寺そのものを創建したと伝えられています。創建年については「大永7年(1527年)」とする記述と、「享禄5年/天文元年(1532年)」とする記述の両方があり、資料によって表記に幅があります。永林寺側の公式な沿革資料による一本化は今回確認できていませんが、少なくとも1520年代後半から1530年代初頭にかけて、定久が柚木城主として寺院創建という大事業を進めていたことは、複数の郷土史資料が一致して伝えています。

開山(初代住職)には、定久の叔父にあたる僧・一宗長純(いっしゅうちょうじゅん)が迎えられました。一族の年長者を寺の住職に据えるというこの人選は、永林寺が単なる祈願所ではなく、大石一族の菩提を弔う場として位置づけられていたことを示しています。

定久はやがて柚木城主としての拠点を寺に譲り、自身は本拠を滝山城へ移していきます。永林寺本堂の裏手、高台になった一角には、かつて定久の居館——柚木城の中心部——があったと伝えられており、その跡地は現在も残っています。八王子市公式ホームページは、この一帯を「大石氏居館跡」として紹介しています。合戦で名を上げるよりも先に、定久はまず、一族の記憶を刻む場所をこの地に用意していたのです。


河越夜戦と北条氏照の婿入り —— 家と城を譲った決断

定久の人生の転機は、戦場ではなく、ある敗北の報せとともに訪れました。

天文15年(1546年)、山内上杉氏・扇谷上杉氏の連合軍が北条氏康の軍に大敗した河越夜戦です。定久が従っていた上杉方は、この一戦で事実上崩壊しました。長年、関東管領・山内上杉氏の重臣として多摩地域を治めてきた大石氏にとって、後ろ盾そのものが消え去った瞬間でした。

後ろ盾を失った定久に残された選択は多くありませんでした。単独で北条氏の軍事力に対抗する術はなく、定久は北条氏康に臣従することを決めます。しかしこの降伏は、単なる服従では終わりませんでした。氏康の三男・北条氏照(ほうじょううじてる)が、定久の娘・比左の婿養子として大石家に入ったのです。氏照は「大石源三氏照」を名乗り、大石家の家督と滝山城、そして武蔵守護代という地位までも継承しました。

婚姻と家督継承の正確な時期については、河越夜戦(1546年)からほどなくとする説と、永禄2年(1559年)とする説があり、資料間で食い違いが残っています。いずれにしても、定久は合戦で討たれたわけでも、城を攻め落とされたわけでもありません。後ろ盾を失った現実を見極め、娘を通じて血脈を北条の権威に結びつけるという道を、自ら選んだのです。家名を絶やさないための、実利に基づいた決断だったといえます。


隠居後の生涯 —— 戸倉城と「心月斎道俊」

家督と城を譲った後の定久がどう生きたか、その足跡は多くを語りません。それでも、わずかに残る記録は、隠居後もなお心穏やかではいられなかった一人の武将の姿を映しています。

家督と滝山城を譲った定久は、入道して「心月斎道俊(しんげつさいどうしゅん)」と号し、多摩郡五日市(現・あきる野市)の戸倉城に隠居したと、複数の資料が伝えています。

隠居後も、定久は越後の上杉謙信らと連絡を取り、北条氏の支配から脱却しようとする動きを見せていたとする記述もあります。もしこれが事実であれば、娘婿に家を譲った後も、定久が北条氏への従属を完全には受け入れていなかったことになります。ただし、この点を直接裏付ける一次史料は今回確認できていません。

定久の没年は、天文18年(1549年)10月7日(西暦1549年10月27日)、享年58〜59歳とする記述で、複数の資料が一致しています。家督を譲ってから没するまでの数年間、定久がどのような思いで戸倉城での日々を過ごしていたのか——それを直接語る史料は、現地にも文献にも残されていません。


永林寺に遺るもの —— 大石氏居館跡・由木城跡の碑・定久公の像

定久が没してから480年近い時が流れた今も、永林寺には、彼の記憶をかたちにした史跡が三つ、セットで残っています。

一つ目は、本堂裏手の高台にある「大石氏居館跡」です。かつて柚木城の中心部であったと伝えられるこの一帯は、昭和45年(1970年)1月22日、八王子市の指定史跡となりました。土塁や堀といった城としての遺構は、寺院としての境内整備によって大きくその姿を変えていますが、「居館跡」という名称とともに、場所の記憶は保たれています。

二つ目は、永林寺墓地の奥に建つ「史蹟 由木城址」と刻まれた石碑です。その傍らには、三つ目にあたる大石定久公の銅像と、定久・夫人の墓が設けられています。居館跡・城址碑・銅像という3点が同じ境内に揃っている例は、多摩地域の戦国武将の史跡としても、決して多くありません。

JR八王子駅や京王線沿線からバスでアクセスできるこの場所には、合戦で散った武将の碑とは違う、静かな説得力があります。定久は城を奪われたのではなく、譲ったのです。その事実が、今も現地に遺された史跡の在り方そのものに表れているように見えます。


「由木氏」か「大石氏」か —— 武蔵名勝図会が記した別名の謎

永林寺に遺る史跡には、もう一つ、解けていない謎があります。それは、この場所を誰の跡として呼ぶべきか、という名前そのものの謎です。

江戸時代後期、八王子千人同心の一人であった植田孟縉(うえだもうしん)が編纂した地誌『武蔵名勝図会』は、永林寺一帯の旧跡を「由木氏邸跡」として紹介しています。大石氏(定久)とは異なる氏族名での記載です。一部の郷土史資料は、由木氏について「横山党の中心・横山氏の分家であり、後に小田原北条氏の家臣にもなった一族」と説明し、大石氏とは別系統の氏族として位置づけています。

一方で、八王子市公式ホームページや複数の郷土史サイトは、同じ場所を「大石氏居館跡」「大石定久公の像」として紹介しており、現地の通称としては大石氏の史跡として扱われるのが一般的です。「由木」という地名が先にあり、後からその地を治めた大石氏の記憶と重なって伝承が混在した可能性が考えられますが、由木氏と大石氏の関係——同一の一族の呼び方の違いなのか、姻戚関係なのか、あるいは後世の混同なのか——を確定させる学術的な典拠は、今回の調査では見つかりませんでした。一つの史跡に、二つの名前が伝わっている。それ自体が、この土地の歴史の厚みを物語っています。


定久以後 —— 実子・大石定仲と、千人同心へつながる系譜

定久が家を譲った後の物語は、娘婿・氏照だけのものではありません。もう一つ、実子を通じた血脈の行方があります。

定久の死後、娘婿の北条氏照が大石家の家督・滝山城主の地位を担っていましたが、氏照が北条家の一員として正式に扱われるようになると、定久の実子である大石定仲(おおいしさだなか、天文3年=1534年生とする記述がある)が、大石の家督を継いだとされています。

定仲、そして定久の養子であった大石定勝——氏照の義兄弟筋にあたる人物です——の子孫は、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、北条氏直が河内狛江へ移された後、徳川家に仕えることとなりました。その子孫の一部は旗本・一橋家家臣となった系統のほか、八王子千人同心の一員となった系統もあるとされています。

家督と城は娘婿に譲りながら、血脈そのものは実子を通じて受け継がれ、形を変えながら八王子の地——千人同心——に残り続けました。定久から定仲への家督継承の時期や、子孫のうち具体的に誰が千人同心に編入されたかという個別の系図までは、今回の調査では確認できていませんが、大石の名がこの地に長く息づいていたことは確かです。


まとめ

大石定久は、合戦に敗れて城を失った武将ではありません。後ろ盾が崩れた現実を見極め、娘を通じて家を北条氏照に託し、自らは戸倉城で生涯を終えた人物です。永林寺に遺る居館跡・城址碑・銅像、そして「由木氏」という別名の謎——そのどれもが、滝山城という大きな舞台の陰で見過ごされがちな、定久個人の足跡を今に伝えています。次に永林寺を訪れる機会があれば、その静かな境内に、一つの家を譲り渡した武将の決断を重ねてみてください。


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連載「桑都人物誌」は、八王子を形づくった人物を一人ずつ辿るシリーズです。


参考文献

八王子市ホームページ「大石氏居館跡」 / 戦国ヒストリー「大石定久の生涯とは 山内上杉家の宿老も北条家に屈する」 / 八王子さん歩「大石定久公像」 / 明智軍記ゆかりの地探訪「由木城跡(柚木城跡)~大石氏館跡・大石定久公の像とお墓~永林寺にて」 / 城旅ログ「武蔵・柚木城(由木城) 柚木城跡の永林寺と大石定久像・大石家墓所」

この記事は連載「桑都人物誌」第19話です (全20話・更新中)

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カヅキ

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桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。