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桑都の人 · 公開: 2026.07.06 · 更新: 2026.07.17 · 6分で読めます

武蔵名勝図会 —— 多摩の風景を絵と文で遺した千人同心

八王子千人同心組頭・植田孟縉が文政6年に完成させた『武蔵名勝図会』は、多摩郡の名所旧跡を絵入りで記録した地誌。56歳から著作活動を本格化させ、87歳まで筆を執り続けた博覧強記の文人の生涯を辿る。

古い書物とペン先

概要

江戸時代後期、八王子千人同心の組頭に、多摩の風景を絵と文で記録し続けた人物がいました。植田孟縉(うえだ もうしん)です。56歳で幕命による地誌編纂の仕事に就き、66歳で代表作『武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ)』を完成。80歳で『日光山志(にっこうさんし)』を刊行し、87歳で没するまで筆を擱くことはありませんでした。「図会」という絵入り地誌の形式で、多摩の風景をいまに伝えるこの著作と、その作者の生涯をご紹介します。


藩医の子から千人同心へ

宝暦7年12月8日(1758年1月17日)。植田孟縉は、熊本自庵(くまもと じあん)の子として江戸屋敷で生まれました。通称は十兵衛。

実父の熊本自庵については、伊予吉田藩の藩医の子であったとする記録もありますが、確定的な史料は見つかっていません。いずれにせよ、武家ではなく医家に生まれたことは確かです。

19歳のとき、人生の転機が訪れます。八王子千人同心組頭・植田元政(うえだ もとまさ)の養子に入ったのです。医家の子が武士の養子となる——江戸時代、千人同心の養子縁組は家の存続のために広く行われていましたが、孟縉の場合は身分を越えた転身でした。

養子入りによって孟縉は八王子に移り住み、千人同心組頭としての生涯が始まります。やがて漢学塾(植田塾)を開設し、千人同心の子弟教育に携わるようになりました。同時代に塩野適斎が講武堂・読書堂を開いたように、組頭たちが自ら私塾を開いて教育を担うことは、千人同心社会の特徴のひとつでした。

画については、渡辺崋山(わたなべ かざん)に師事したとの記録がありますが、師事した時期や経緯の詳細は明らかになっていません。しかし、のちの著作に収められた挿画の質を考えれば、体系的な画の修練を積んでいたことは確かでしょう。


幕命の地誌編纂 — 多摩の村々を歩く

文化10年(1813年)。孟縉56歳。千人頭・原胤敦(はら たねあつ)が幕府から武蔵国の地誌編纂を命じられたとき、孟縉は塩野適斎らとともにこの大事業の中核を担うことになりました。

『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の多摩郡・高麗郡・秩父郡の部。この編纂のために、孟縉は多摩の村々を実地に歩いて回りました。廻村調査と呼ばれるこの作業は、地形や名所を自分の目で確かめ、土地の人々から話を聞き、寺社の縁起や古文書を調べるという地道なものです。

56歳から始まった本格的な著作活動——それは遅咲きに見えるかもしれません。しかし孟縉にとって、この幕命の地誌編纂こそが、蓄積された学問と画の技術を初めて本格的に発揮する場となったのです。そしてここで得た知見と経験が、彼自身のライフワークへとつながっていきます。


絵と文の地誌 — 武蔵名勝図会の誕生

文政6年(1823年)。孟縉66歳。廻村調査で得た膨大な知見をもとに、『武蔵名勝図会』が完成しました。

「図会(ずえ)」とは、名所旧跡を絵入りで紹介する地誌の形式です。文章だけの記録ではなく、実際の風景や建物の姿を絵で示すことで、読む者がその場所の空気まで感じ取れるように工夫されています。江戸時代後期に流行した地誌の一ジャンルであり、『江戸名所図会』や『東海道名所図会』などが知られていますが、孟縉はこの形式を武蔵国多摩郡に適用しました。

対象地域は武蔵国のうち多摩郡に限定。写本として全14冊にまとめられました。巻構成は、野方領から始まり、武蔵野新田・山口領・村山郷、府中領、世田ヶ谷領、立川郷、拝島領、日野領へと展開します。いまの東京都多摩地域から埼玉県の一部にかけてのエリアを、名所ごとに絵と文で記録したのです。

完成した稿本は浄写(清書)され、昌平黌(しょうへいこう)に献上されました。当時の大学頭は林述斎(はやし じゅっさい)。幕府の最高学府に納められたことは、この著作の学術的価値を裏付けています。

刊行こそされませんでしたが、写本は八王子近辺で広く流布し、地域の知識人の間で読み継がれていきました。現在、写本は早稲田大学図書館、国立国会図書館、国文学研究資料館(国書データベース)などに所蔵されており、デジタル公開もされています。片山迪夫校訂による刊本も慶友社から出版されています。


80歳の出版 — 日光山志

孟縉の著作活動は、武蔵名勝図会の完成では終わりませんでした。

文政12年(1829年)には、鎌倉・江ノ島・金沢の地誌『鎌倉攬勝考(かまくららんしょうこう)』全11巻も成立しています。多摩だけでなく、相模・武蔵を広くカバーする地誌の編纂を並行して進めていたのです。

そして天保8年(1837年)。孟縉80歳。『日光山志(にっこうさんし)』全5巻が刊行されました。日光山の歴史・地理・祭礼をまとめ、日光八景の絵入り解説、鳥類・植物の彩色挿画を収めた本格的な地誌です。

特筆すべきは、この『日光山志』が孟縉の生涯で唯一の刊行作品であったこと。他の著作はすべて写本のまま残されていますが、日光山志だけは版木に彫られ、出版されました。挿画には渡辺崋山ほかの絵師が参加しています。

80歳にして処女出版。その筆力は、衰えるどころかむしろ円熟の域に達していたことが窺えます。

年齢 西暦 主な著作活動
56歳 1813年 新編武蔵風土記稿の編纂開始
66歳 1823年 武蔵名勝図会完成・昌平黌に献上
72歳 1829年 鎌倉攬勝考成立
80歳 1837年 日光山志刊行(唯一の刊行作品)
87歳 1844年

天保14年12月14日(1844年2月2日)、植田孟縉は87歳で没しました。56歳から87歳まで、約30年にわたる著作活動。その間に武蔵・相模・日光と、広大な地域の名所旧跡を絵と文で記録し続けたのです。


千人同心組頭の家

いま、植田孟縉の遺した足跡はどこでたどることができるのでしょうか。

江戸東京たてもの園の西ゾーンに、「八王子千人同心組頭の家」が移築保存されています。もともと八王子市追分町にあったこの建物は、江戸時代後期の千人同心組頭の住まいの姿を伝える貴重な遺構です。

式台付きの玄関は武士の格式を示し、整形四間取りの間取り、床の間・棚・飾りを備えた座敷が往時の暮らしを偲ばせます。この家は適斎の旧居として知られていますが、追分町の千人同心組頭の屋敷群にあったもので、孟縉もまた同じ地区に暮らしていた千人同心の一人でした。

植田孟縉墓は八王子市指定史跡に指定されています。87歳の長寿を全うした博覧強記の文人が、八王子の地に眠っています。


まとめ

医家の子として江戸に生まれ、養子縁組で八王子千人同心の世界に入った植田孟縉。漢学塾を開いて教育に携わり、56歳で幕命の地誌編纂に参加したことを契機に、約30年にわたる著作活動を展開しました。

多摩の名所旧跡を絵と文で記録した『武蔵名勝図会』は、文章だけでは伝わらない風景の空気を絵の力で遺すという試みでした。同時代の塩野適斎が編年体の『桑都日記』で八王子の歴史を時間軸に沿って記録したのに対し、孟縉は「図会」という形式で空間を記録した。二人の千人同心は、時間と空間という異なる軸で、同じ土地の姿を後世に遺したのです。

80歳で『日光山志』を出版し、87歳まで筆を擱かなかった孟縉の生涯は、知の営みに終わりがないことを静かに示しています。


参考文献

八王子市ホームページ「八王子千人同心の歴史」「植田孟縉墓」 / 植田孟縉(Wikipedia) / 武蔵名勝図会(コトバンク) / 早稲田大学図書館「武蔵名勝図会」(古典籍総合データベース) / 国立国会図書館デジタルコレクション / 国立公文書館「日光山志」「新編武蔵風土記稿」 / 東京都博物館コレクション(ToMuCo)「八王子千人同心組頭の家」 / 江戸東京たてもの園「西ゾーン」 / 鎌倉攬勝考(コトバンク)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。