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桑都の人 · 公開: 2026.07.06 · 更新: 2026.07.17 · 7分で読めます

桑都日記 —— 八王子243年の記憶を綴った千人同心

八王子千人同心組頭・塩野適斎が編纂した『桑都日記』は、天正10年から文政7年までの243年間を記録した八王子の通史。41巻50冊に及ぶこの編年体の地誌は、東京都指定有形文化財として極楽寺に伝わる。

概要

「桑都」——八王子の古い異名を書名に冠した地誌があります。八王子千人同心組頭・塩野適斎(しおの てきさい)が編纂した『桑都日記(そうとにっき)』です。天正10年(1582年)から文政7年(1824年)まで、243年間の八王子の出来事を年代順に記録した全41巻50冊。剣の免許を持ち、自宅に武芸道場と学問塾を開いた文武両道の人物は、晩年の処分にも屈せずこの大著を完成させました。東京都指定有形文化財として極楽寺に伝わる『桑都日記』と、その編纂者の生涯を辿ります。


千人同心の家に生まれて

安永4年(1775年)。塩野適斎は、八王子千人同心組頭・河西知礼(かわにし ちれい)の次男として生まれました。通称は所左衛門、別名を河西知哲(かわにし ちてつ)といいます。

八王子千人同心は、徳川家康が関東に入封した際に組織された半士半農の武士団です。甲斐武田氏の遺臣や北条氏の旧臣など、多摩地域の武士たちを集めて編成されました。平時は八王子に住んで農耕を営み、有事には甲州口の守りに就く。その組頭は、武士としての格式を持ちながら地域に根ざして暮らす存在でした。

寛政3年(1791年)、17歳の適斎は、同じく千人同心組頭であった塩野光廸(しおの こうちょく、号は鶏沢)の養子に入ります。養子縁組は千人同心の家を維持するための重要な制度でした。適斎はここから、塩野家の当主として八王子の地域社会の中心に立つことになります。


剣と書 — 文武両道の教育者

塩野適斎という人物を語るうえで欠かせないのが、文武両道の実践です。

まず武の道。寛政3年(1791年)、養子入りと同じ年に、太平真鏡流の開祖・若菜豊重に入門して剣術を修めています。寛政10年(1798年)には刀法の免許を取得しました。千人同心にとって武芸は職分そのものでしたが、適斎は単なる嗜みにとどめず、正式な免許を得るまで研鑽を積んでいます。

次に文の道。享和2年(1802年)、河尻春之の紹介で林家の家塾に入門し、朱子学を修学しました。林家の家塾とは、幕府の官学を司る林家が運営する学問所です。千人同心が林家で学ぶことは、18世紀末から19世紀初頭にかけて増加した傾向の一つでした。千人頭・組頭の子弟が昌平坂学問所に学ぶ流れの中で、適斎もまた中央の学問に触れたのです。

そして文化3年(1806年)、適斎は自らの屋敷に二つの教育施設を開きました。

講武堂(こうぶどう)——武芸道場。 読書堂(どくしょどう)——学問塾。

文武を一つ屋根の下で教える。この試みは、千人同心の子弟教育に大きな影響を与えました。適斎はただの学者でも剣術家でもなく、地域の教育者としての顔を持っていたのです。


幕命を受けて — 新編武蔵風土記稿の編纂

文化10年(1813年)、千人頭・原胤敦(はら たねあつ)が幕府から命を受けました。武蔵国の地誌を編纂せよ、と。

これが『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の多摩郡編の始まりです。適斎は同僚の植田孟縉(うえだ もうしん)らとともに、多摩郡・高麗郡・秩父郡の調査と執筆を担当しました。

村々を歩いて地形・名所・寺社・旧跡を記録する。土地の古老に話を聞き、古文書を渉猟し、事実を確認する。この地誌編纂の経験が、後の『桑都日記』に活きたことは想像に難くありません。文政5年(1822年)、多摩郡之部が完成して幕府に納められました。

適斎と植田孟縉は、ともに千人同心組頭であり、ともに幕命の地誌編纂に携わり、ともに自らの著作を残した文人です。植田孟縉が絵入りの『武蔵名勝図会』で多摩の風景を視覚的に記録したのに対し、適斎は編年体の『桑都日記』で八王子の歴史を時間軸に沿って記録しました。同時代を生きた二人の千人同心は、それぞれ異なるアプローチで多摩・八王子の姿を後世に遺したのです。


41巻50冊 — 桑都日記の全貌

文政10年(1827年)。『桑都日記』の正編が完成し、幕府に献上されました。さらに天保5年(1834年)には続編が脱稿。合わせて41巻50冊に及ぶ大著となりました。

区分 完成年 巻数 冊数
正編 文政10年(1827年) 15巻 23冊
正編図解 同上 1巻 2冊
続編 天保5年(1834年)脱稿 24巻 24冊
続編図解 同上 1巻 1冊
合計 41巻 50冊

記録の対象期間は、天正10年(1582年)から文政7年(1824年)までの243年間。編年体——出来事を年代順に配列し、解説を加えていく形式で書かれています。

記録されたのは、八王子千人同心に関する事項をはじめ、八王子地域の歴史・風俗・事件など多岐にわたります。出版こそされませんでしたが、幕府に献上された写本として伝存し、八王子の通史として得難い資料となっています。

「桑都」の名をこの著作に冠したこと自体が、適斎の八王子への思いを示しています。西行が詠んだとされる「浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く」に由来するこの雅称を、243年の通史の書名に選んだのです。このことによって「桑都」という呼称は文献として確固たる位置を得ました。令和2年(2020年)に八王子市が日本遺産「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」の認定を受けた際にも、その精神的な源流のひとつとして『桑都日記』の存在がありました。


表紙の芯紙から現れた宝

平成14年(2002年)、桑都日記の修復作業中に、思いがけない発見がありました。

表紙の芯紙——表紙の内側に補強として貼り込まれていた紙——を剥がしたところ、そこから『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』津久井県之部の草稿の一部が現れたのです。

『新編相模国風土記稿』は幕府が編纂した相模国の地誌ですが、その草稿の現物は長らく確認されていませんでした。桑都日記の表紙に使われていたこの紙片は、草稿の実在を初めて示す貴重な物証となりました。

なぜ草稿が表紙に使われていたのか。適斎が新編武蔵風土記稿の編纂に携わっていた関係で、関連する草稿類が手元にあったのかもしれません。反古(ほご)として表紙の芯材に転用するのは、当時ごく一般的な紙の利用法でした。意図せず保存されたこの草稿片は、200年近い時を経て歴史的な発見をもたらしたのです。


譴責、そして完成

文政7年(1824年)、適斎に突然の災厄が降りかかります。譴責処分を受け、千人同心組頭から平同心に格下げされたのです。

処分の理由は「前年の怪書一件」に関連するとされていますが、詳細は明らかになっていません。組頭から平同心への降格は、武士としての格式を大きく損なうものでした。

しかし適斎は筆を擱(お)きませんでした。

処分にもかかわらず『桑都日記』の編纂を続行し、文政10年(1827年)に正編を完成させて幕府に献上しています。さらに天保5年(1834年)には続編を脱稿。地位を失っても、八王子の歴史を記録するという営みを止めなかったのです。

弘化4年(1847年)11月16日、塩野適斎は73歳で没しました。

その葬儀には、千人頭5名以下、500人を超える参列者が集まったと伝えられています。千人同心の組織は約1,000人規模でしたから、その半数以上にあたる人々が弔いに駆けつけた計算になります。晩年の処分にもかかわらず、いかに地域から慕われていたかを物語る数字です。


適斎の足跡をたどる

いま、塩野適斎の遺したものはどこで見ることができるのでしょうか。

極楽寺(ごくらくじ)——八王子市大横町7-1に所在する浄土宗の寺院。『桑都日記』はここに所蔵されています。東京都指定有形文化財(古文書)として保管されており、八王子市郷土資料館(現・桑都日本遺産センター「はちはく」)に寄託されてきました。なお「はちはく」は2026年10月に新ミュージアムへ移転開館が予定されています。

同じ極楽寺の境内には、「塩野適斎一族墓」が残されています。こちらも東京都指定文化財です。

江戸東京たてもの園——東京都小金井市の小金井公園内にある野外博物館。ここに移築保存されている「八王子千人同心組頭の家」は、かつて八王子市追分町にあった適斎の旧居です。式台付きの玄関、整形四間取りの間取り、床の間と棚を備えた座敷——千人同心組頭の武士としての格式を示す建物が、往時の姿を伝えています。あの講武堂と読書堂は、この屋敷の中にあったのです。


まとめ

千人同心組頭の家に生まれ、剣の免許を得て、林家の家塾で朱子学を修め、武芸道場と学問塾を開いた塩野適斎。幕命による新編武蔵風土記稿の編纂で鍛えられた地誌編纂の力は、やがて243年間の八王子通史『桑都日記』として結実しました。

譴責による降格を受けてなお筆を擱かず、正続41巻50冊を完成させた粘り強さ。500人が参列した葬儀が示す地域からの敬愛。そしてなにより、この著作に「桑都」の名を冠したことで、八王子のアイデンティティそのものに一つの軸を与えた——その文化的な功績は、180年以上を経たいまも色褪せることがありません。


参考文献

八王子市ホームページ「八王子千人同心の歴史」 / 塩野適斎(Wikipedia) / 桑都日記(Wikipedia) / 東京都博物館コレクション(ToMuCo)「塩野適斎一族墓」 / 江戸東京たてもの園「八王子千人同心組頭の家」 / 八王子市ホームページ「日本遺産・桑都物語」 / 数馬広二「八王子千人同心における武芸」(1992年、日本武道学会)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。