関東綱五郎 —— 千人同心の子は、なぜ清水次郎長の子分になったのか
八王子千人同心の家に生まれた鈴木綱五郎は、19歳で故郷を飛び出し、侠客・清水次郎長の子分となって「唯一の拳銃使い」と呼ばれた。学問や幕府への献策で名を残す同心が多い中、なぜ彼は博徒の道を選んだのか。その生涯と、晩年に帰った高尾・大光寺の記憶を辿ります。

この記事の目次
全国に名の知れた侠客・清水次郎長の子分のうち、「唯一の拳銃使い」と呼ばれた男がいました。その出自は、八王子・高尾の千人同心の家。学問や幕府への献策で名を残す同心が多いなか、彼はなぜ故郷を飛び出し、博徒の世界へ身を投じたのでしょうか。その経緯を辿ると、千人同心という身分の意外な一面と、高尾という土地が持つもう一つの顔が見えてきます。
千人同心の家に生まれて —— 19歳の出奔
関東綱五郎、本名・鈴木綱五郎は、文政5年(1822年)、武蔵国多摩郡上椚田村(現・東京都八王子市高尾町)に生まれました。父・鈴木惣七は八王子千人同心を務めた人物で、綱五郎は鈴木家6代目にあたります。
八王子千人同心は、武田氏の旧臣を中心に組織された郷士身分の集団で、八王子宿の西方(現・千人町)に屋敷地を構え、平時は農業や学問に励み、有事には日光勤番などの警備を担うという、他の幕臣とは異なる独特の身分でした。半農半士という暮らしのなかから、本連載「桑都人物誌」でこれまで取り上げてきた松本斗機蔵や近藤三助、志村貞盈のように、学問や武術を究めて名を残した家が多いのも、この身分の特徴です。江戸から離れた在郷の武士でありながら、日光勤番を通じて広い世界に触れる機会を持っていたことが、こうした人材を育てた土壌になったとも言われています。
ところが綱五郎は、そうした道を歩みませんでした。天保11年(1840年)、19歳のときに故郷を出奔したと伝えられています。出奔後は上野国(現・群馬県)を経て各地を遍歴し、最終的に駿河国清水湊(現・静岡市清水区港町)に流れ着いたとされます。何がきっかけで、まだ19歳の若者が家を飛び出したのか——出奔の理由については「親戚とのいざこざ」が原因とする記述が郷土史の資料に見られますが、具体的な経緯の詳細や、遍歴した経路の細部までは、同時代の史料による裏付けは確認されていません。千人同心の家に生まれたという家柄自体は複数の資料で一致しており、少なくともその家柄が、必ずしも全員を幕臣としての規律に閉じ込めていたわけではなかったことが、綱五郎の歩みから見えてきます。
清水次郎長一家へ —— 使者を斬らなかった親分
清水に流れ着いた綱五郎は、のちに全国にその名を知られる侠客・清水次郎長の子分となります。その経緯として伝わる逸話が、印象的です。
清水で世話になっていた「黒目の五郎」という親分から、一宿一飯の義理で頼まれ、綱五郎は次郎長一家へ「喧嘩の使い」として赴きました。こうした使者は、通常であれば果し合いの口上を述べたのちに斬られる役回りとされていましたが、次郎長は綱五郎を斬らずに帰したと伝えられています。この対応に綱五郎が感銘を受け、次郎長の子分になった——という筋立てが、複数の資料で共通して語られています。
綱五郎は、次郎長の最初の押しかけ子分であった「桶屋の鬼吉」に続く、二人目の押しかけ子分になったとされます。そして清水一家の中で「唯一の拳銃使い」であったという記述が、複数の資料に見られます。幕末から明治初期の博徒抗争において、拳銃を扱う子分というのは異色の存在であり、これは綱五郎の人物像を特徴づける逸話として、繰り返し語られてきました。
ただし、「喧嘩の使いを斬らずに帰した」という話の型は、清水次郎長をめぐる講談・浪曲(特に昭和初期に一代を築いた広沢虎造の「次郎長伝」)で典型的に語られる構造でもあり、次郎長一家の他の子分についても似た逸話が伝わっています。綱五郎個人の逸話として独立に史料で確認できるものではなく、口承文芸としての性格が強い点は留意が必要です。「清水二十八人衆」と呼ばれる次郎長一家の子分集団自体、昭和初期の浪曲の大流行を通じて一般化した通俗的な人物リストという側面が強く、個々の子分の実在性や経歴の確からしさには資料によってばらつきがあります。
それでも、千人同心の家に生まれた若者が、全国区の侠客集団の中で「唯一の拳銃使い」という異色の立ち位置を確立したこと自体は、複数の資料が一致して伝える事実です。なお、関東綱五郎については、同じく清水二十八人衆の一人とされる「大瀬の半五郎」と同一人物であるという説も存在しますが、これは百科事典系の記述にのみ見られるもので、高尾の郷土史資料側では直接の裏付けが取れていません。記事化にあたっては、こうした同一人物説は「〜という説もある」という留保つきで扱うのが妥当です。
荒神山の喧嘩 —— 幕末最大の縄張り抗争に立つ
綱五郎が侠客としての名を上げた最大の舞台が、慶応2年(1866年)に起きた「荒神山の喧嘩」です。
伊勢国荒神山(現・三重県鈴鹿市)で、博徒・神戸長吉と穴太徳一派の間に縄張り争いが発生し、神戸側の助っ人であった吉良の仁吉が落命したとの報を受けて、兄弟分の清水次郎長が東海道の博徒480余名を動員して応戦しました。対する穴太徳側には黒駒勝蔵一派も加わり、次郎長と黒駒勝蔵の対立が最高潮に達した事件として、幕末の博徒史に位置づけられています。
関東綱五郎はこの荒神山の喧嘩に参戦し、「別働隊として活動した」「有名な荒神山の決戦で男を上げた」と伝えられています。具体的にどのような戦功を挙げたのかまでは、資料に明記されていません。荒神山の喧嘩そのものの発生年や主要な対立構図は複数の独立した資料で一致している一方、綱五郎個人の戦功の内容は「別働隊として活動」「男を上げた」といった抽象的な表現にとどまっており、詳細な裏付けは確認できていません。
吉良の仁吉の落命をきっかけに、東海道筋の博徒480余名が一斉に動いたという荒神山の喧嘩は、幕末の博徒史のなかでも次郎長と黒駒勝蔵の対立が最高潮に達した事件として位置づけられています。綱五郎が千人同心の家に生まれた武蔵国の若者でありながら、こうした東海道筋の大規模な抗争の渦中に身を置いていたという事実は、彼が清水次郎長一家の一員として、単なる名目上の子分ではなく実戦の一角を担う存在であったことを示しています。八王子・高尾の千人同心の子として生まれた男が、東海道を揺るがす博徒抗争の当事者として名を連ねたという事実そのものは、郷土史の資料にも記録として残されています。
侠客から火薬商へ —— 次郎長一家解散後の生き方
明治維新を経て、清水次郎長は博徒の道を離れ、富士山麓(富士の裾野)の開拓事業などに関わるようになります。これに伴い、次郎長一家としての組織的な活動も終息に向かいました。
綱五郎はこの頃、侠客の道を離れて京都で火薬商を営み、一時は成功を収めたとされます。京都でどのような規模の事業を手がけていたのか、その詳細までは資料に残っていませんが、博徒として名を上げた男が、明治という新しい時代に合わせて生業を変えたという転身は、幕末から明治への変わり目を生きた侠客たちの、もう一つの姿を示しています。拳銃を扱う子分として鳴らした男が、火薬という物質を商いの道具に変えたという巡り合わせも、綱五郎という人物の経歴を特徴づける一面と言えるでしょう。
そして綱五郎は、40代半ばで故郷の高尾へ帰還しました。武蔵国の千人同心の家を出奔し、駿河で侠客となり、東海道の抗争をくぐり抜け、京都で商人として生きる——全国を渡り歩いた末に、彼が最後に選んだのは、生まれ故郷の土地でした。この帰郷の決断自体の理由を直接語る史料は残っていませんが、主君への奉公や一家の解散という侠客としての拠り所を失った後、綱五郎が頼ったのが、血筋のつながる故郷と菩提寺であったことは、彼の生涯の結びとして資料に一致して記されています。
故郷・高尾へ —— 大光寺で結んだ晩年と、今に残る記憶
綱五郎は明治10年(1877年)頃、菩提寺である大光寺(現・JR高尾駅近傍)の庫裏に身を寄せ、隠居したとされます。
帰郷の経緯として伝わるのが、大光寺が火災によって本堂と庫裏を焼失したという出来事です。この記述に従えば、綱五郎は自らの屋敷を寺に提供し、そこで隠居したことになります。つまり単なる隠居ではなく、火災で困窮した菩提寺を、自らの財で支えたという側面があったことになります。現在、綱五郎の旧宅は大光寺の庫裏として使用されているとされています。かつて拳銃を手に東海道の抗争を渡り歩いた男が、晩年は故郷の寺を支える檀家として暮らした——その対比自体が、綱五郎という人物の生涯の振れ幅を物語っています。
綱五郎は明治19年(1886年)11月に死去しました。没後、その墓は当初別の場所にありましたが、昭和52年(1977年)3月27日に大光寺構内へ移転されました。元の埋葬地には、「関東綱五郎の墓跡」と記した石柱が今も立てられています。
高尾の郷土史愛好家の間では、綱五郎は「生粋の高尾っ子」として、清水次郎長一家という全国的に知られた物語の中に、八王子・高尾の名を刻んだ人物として語り継がれています。高尾山麓という土地は、修験道の聖地として知られる一方で、こうした侠客の晩年の隠居地にもなったという、もう一つの顔を持っていました。学問や幕府への献策で名を残した千人同心の家が多いなかで、出奔して博徒の世界に身を置き、全国的に名の知れた一家の一員として生き、最後は故郷の寺を支えて生涯を終えた綱五郎の歩みは、千人同心という身分の幅の広さを示す、もう一つの記録として残されています。
まとめ
千人同心の家に生まれながら、学問や幕府への献策という道を選ばず、19歳で故郷を飛び出して清水次郎長の子分となった関東綱五郎。「唯一の拳銃使い」として名を上げ、荒神山の喧嘩に立ち、京都で火薬商として生きた末に、最後は故郷・高尾の大光寺で生涯を終えました。千人同心という身分が、必ずしも全員を同じ型にはめていたわけではなかったこと、そして高尾山麓という土地が、修験道の聖地であると同時に、こうした侠客の晩年の隠居地にもなったという事実が、綱五郎の生涯から浮かび上がってきます。
参考文献
高尾通信「江戸っ子だってねえ、関東綱五郎 何と高尾山麓で酒飲みねえ」 / 木瓜爺撮歩「関東綱五郎、そして『金南寺観音堂』」 / ameblo「大光寺と次郎長二十八人衆、関東綱五郎について補足」
カスタマーハラスメント対策、2026年10月に義務化 —— 桑都の商店・工房は何を準備すればいいか
Support
※ Stripe決済(合同会社月香が運営)で安全にお支払いいただけます





