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桑都の人 · 公開: 2026.09.11 · 更新: 2026.09.14 · 8分で読めます

三田村鳶魚 —— 千人同心の血を引く織物商の子は、なぜ「江戸学の祖」となったか

伝統的な寺院の瓦屋根の意匠

八王子の千人同心の家系に連なりながら、家業は織物商——そんな二つの顔を持つ家に生まれた次男が、自由民権運動の壮士として国事件に巻き込まれ、やがて学界からほとんど黙殺されながらも「江戸学の祖」と呼ばれるまでになる。三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)という人物の生涯を、複数の資料を突き合わせながら辿ります。

連載「桑都人物誌」第15回|この連載をまとめて読む


千人同心と織物商、桑都の二つの顔を継いだ子

三田村鳶魚は明治3年3月17日(1870年4月17日)、武蔵国南多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に生まれました。本名は玄龍(げんりゅう。「玄竜」とも表記されます)。父は三田村善平といい、家業は織物商(買継商とする記述もあります)で、鳶魚はその次男でした。

この善平について、「元は八王子千人同心であったという」との記述が複数の資料に見られます。つまり鳶魚は、江戸時代に八王子の警備・治安維持を担った千人同心の家系に連なりながら、明治以降は家業として織物商を営む家に生まれたことになります。評論家・編集者の松岡正剛は、鳶魚の出自を「闊達な八王子の同心気質や実家の織物屋に育」ったと表現しており、同心の家風と織物商という桑都の基幹産業の双方が、鳶魚の人格形成の背景にあったことが独立に確認できます。

幼少期に一家は東京・下谷へ移住したと伝えられ、以後の鳶魚は八王子を離れて暮らすことになりますが、生涯八王子との縁を語り続け、菩提寺は八王子の本立寺です。千人同心と織物商、この二つの出自が、後年の鳶魚の研究テーマ——武家社会と江戸の生活文化の両方を対象にする姿勢——にどこかで通じているように見えます。

ここで、そもそも「千人同心」とは何だったのかを押さえておきます。八王子千人同心は、江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子に配置された譜代の武士集団でした。千人頭10名に率いられた同心1,000名で構成され、頭1名につき同心100名が付きました。千人頭は将軍にお目見えが許される旗本格で知行地を与えられた一方、同心はお目見えを許されない立場で、手当は支給されたものの八王子周辺の村に居住し年貢も納める、半士半農の特殊な身分でした。

慶応4年(1868年)3月、板垣退助率いる新政府軍が八王子に至った際、千人隊は礼装で出迎え武器を差し出して恭順しました。同年6月、新政府から去就を迫られ、徳川家に従い静岡へ移住する者、新政府に仕える者、武士身分を捨てて農民となる者に分かれ、千人同心の組織は解体されました。鳶魚の父・三田村善平が千人同心の家系だったという記述は、まさにこの解体後、武士身分を離れて家業(織物商)に転じた同心の一族という文脈に位置づけられる可能性があります。


三多摩壮士として — 大隈重信遭難事件の余波

青年期の鳶魚は、横浜法律学校、東京法学校(現・中央大学の源流の一つ)に学んだと伝えられていますが、正式な卒業歴かどうかは資料によって表現が揺れます。小学校時代には、後に江戸文化史家として名を成す笹川臨風と同級だったと伝えられ、佐藤牧山・島田蕃根に師事したとの記述も残りますが、時期は特定されていません。むしろ鳶魚の名を歴史の表舞台に一瞬だけ引き出したのは、学問ではなく政治運動でした。

明治22年(1889年)、20歳前後の鳶魚は「三多摩壮士」として自由民権運動に加わっていたとされます。三多摩壮士とは、東京府に編入されて間もない南多摩・北多摩・西多摩地域(現在の多摩地域)で、自由民権運動の実力行使部隊として活動した若者たちを指す呼称です。

同年10月18日、外務大臣であった大隈重信が、条約改正案への反発を背景に玄洋社系の来島恒喜による爆弾襲撃を受け、右脚を失う事件が起こりました。これが大隈重信遭難事件です。来島は現場で自刃しました。鳶魚はこの事件に関連して検挙されたとされ、検挙の際に写真を撮られたことがきっかけで、以後写真を嫌うようになったという逸話も伝えられています。

本文画像: 明治期の壮士と群衆

なお、「爆弾を投げた来島に合図を送ったのが鳶魚だった」「大隈が『前途のある若者だから許してやれ』と言ったことで釈放された」という具体的な逸話も一部で語られていますが、これは個人運営のブログを典拠とする記述で、学術的な裏付けは確認できていません。三多摩壮士として運動に加わっていたこと、大隈重信遭難事件に関連して検挙されたことは複数の辞典で確認できる事実として扱えますが、それ以上の具体的な逸話は伝承として区別して読む必要があります。


従軍記者、そして江戸研究への道

明治27年(1894年)、日清戦争が始まると、鳶魚は中外商業新聞(現・日本経済新聞の前身の一つ)の従軍記者として戦地に赴きました。政治運動の壮士から、戦地を歩く記者へ——鳶魚の関心は、次第に社会の記録者としての側面を強めていきます。

戦後、東京・上野の寛永寺で得度したとも伝えられます。そして明治35年(1905年)ごろ、鳶魚は山梨民報社の記者として甲府に住み、『風俗画報』に「甲斐方言考」を連載しました。これが、江戸研究・地方文化研究へ向かう鳶魚の活動の初期のものとされています。方言という地域に根ざした言葉の記録から出発した関心が、やがて江戸という一つの時代・都市全体の風俗史へと広がっていく——その転換点が、この甲府時代にあったと見ることができます。


学界に無視された「在野の江戸学者」

明治40年代から、鳶魚は政教社の社員となり、雑誌『日本及日本人』に江戸文化・史実考証の論考を多数発表するようになります。その研究方法は、正史よりも江戸時代の随筆・聞き書きを史料として用い、政治・風俗・文学・生活文化のすべてにわたって考証を積み重ねる、という点に特徴がありました。松岡正剛は鳶魚の姿勢を「ひたすら該博愉快に江戸社会の出来事を書きまくり、喋りまくり、編集しまくった」と評し、「江戸学は三田村鳶魚に始まった」「膨大な拾遺と考察がのちのちの江戸学の礎石になった」と述べています。

本文画像: 古文書を読む書斎の情景

昭和13年(1938年)、鳶魚は『江戸読本』を創刊しました。主要著作を発表年順に見ると、『甲斐方言考』(1905年)、『芝居と史実』(1911年)、『江戸の珍物』(1913年)、『伊賀の水月』(1918年)、『鳶魚随筆』(1925年)、『江戸年中行事』(1927年)、『江戸ッ子』(1933年)、『捕物の話』(1934年)、『江戸百話』(1939年)と、生涯にわたって江戸をめぐる考証を書き続けたことが分かります。全集として『三田村鳶魚全集』全28巻(中央公論社)、新編「鳶魚江戸文庫」全36巻(中公文庫)が編まれ、編書に『未刊随筆百種』全12巻(中央公論社)があります。

しかし、この旺盛な執筆活動は、当時の歴史学界からはほとんど評価されませんでした。鳶魚は典拠を明示しない書き方をしたため、とくに百姓一揆などの研究を軸としたマルクス主義史観が重視された学界からは長く引用されない存在だったのです。在野で書き続けた膨大な考証が正当に評価されるまでには、長い時間が必要でした。

平成期に入り、歴史学者・山本博文らによって「在野の江戸学者」として再評価が進み、没後に稲垣史生が『三田村鳶魚江戸武家事典』『江戸生活事典』を編纂しています。研究会の参加者だった森銑三は鳶魚を「江戸通の三大人」の一人と評し、随筆家の柴田宵曲は鳶魚の口述筆記を数多く担当しました。学界の外で積み上げられた仕事が、学界の外の人々によって語り継がれていった——そんな評価の道筋が見えてきます。


早稲田大学演劇博物館への遺稿、そして晩年

早稲田大学演劇博物館は昭和3年(1928年)10月、坪内逍遙が古稀(70歳)を迎えたことと、その半生を傾けた『シェークスピヤ全集』全40巻の翻訳完成を記念し、各界有志の協賛によって設立されました。鳶魚は同館の設立・運営に協力した人物の一人とされ、没後、鳶魚の遺稿・旧蔵資料は同館に寄託されています。江戸の随筆・聞き書きを渉猟し続けた鳶魚の蔵書と原稿が、演劇と芸能の記録を専門とする学術機関に受け継がれたことは、鳶魚の関心の広さを物語っています。

なお、鳶魚が演劇博物館の「初代館長」を務めたとする記述も一部に見られますが、演劇博物館の設立自体が坪内逍遙を記念する事業であったこととの整合性を含め、早稲田大学側の公式資料でこの役職を直接確認することはできませんでした。同館の設立・運営への協力者であったことは複数資料で確認できる一方、館長という肩書については未確定の情報として扱います。

大正12年(1923年)ごろ、鳶魚は東京・中野に居を構えました。太平洋戦争末期には、山梨県西八代郡富里村(現・身延町)湯沢温泉の不二ホテルに疎開します。

そして昭和27年(1952年)5月14日、疎開先の富里村で死去しました。享年82(数え)。菩提寺は八王子の本立寺です。晩年の著作を集成した『鳶魚江戸ばなし』全20冊(青蛙房)が、没後に刊行されています。

千人同心の血を引く家に生まれ、自由民権運動の壮士として一時代の事件に関わり、従軍記者を経て、学界に無視されながらも江戸研究に生涯を捧げた——三田村鳶魚の歩みは、明治から昭和にかけて、在野の一人の人間が何を書き残せるかを示した記録でもあります。


まとめ

三田村鳶魚は、八王子の千人同心と織物商という二つの出自を背負いながら、自由民権運動の壮士、日清戦争の従軍記者、そして江戸文化の考証家という三つの顔を渡り歩きました。学界からは長く黙殺されながらも、正史に載らない江戸の随筆・聞き書きを地道に拾い集め続けたその姿勢は、平成期になってようやく「在野の江戸学者」として正当な評価を得ることになります。桑都に生まれた一人の人物が、遠く離れた江戸研究の分野で名を残した——その軌跡は、桑都人物誌の中でも異色の一章です。


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連載「桑都人物誌」は、八王子を形づくった人物を一人ずつ辿るシリーズです。


参考文献

この記事は連載「桑都人物誌」第15話です (全20話・更新中)

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。