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桑都の人 · 公開: 2026.07.12 · 更新: 2026.07.14 · 8分で読めます

大久保長安と八王子宿の誕生 —— 城下町を再編し石見土手を築いた代官頭

武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となった大久保長安(おおくぼながやす)は、八王子城落城後の荒れた土地に新しい宿場町を計画し、浅川の治水と千人同心の創設を成し遂げました。八王子のまちの原型を築いた代官頭の生涯を辿ります。

街道と宿場を描いた古地図風の和モダンイラスト

現在の八王子市中心市街地は、天正18年(1590年)の八王子城落城をきっかけに、ゼロからつくり直された町です。その計画を主導したのが、代官頭・大久保長安(おおくぼながやす)でした。武士ではなく猿楽師の家系に生まれた一人の男が、なぜ関東十八代官の頭として八王子を統治するに至ったのか。宿場の町割り、浅川の治水、そして千人同心の成立という三つの事業から、桑都の礎を築いた代官の足跡を辿ります。


猿楽師の子から徳川家臣へ

大久保長安は天文14年(1545年)に生まれたとされています。八王子市立図書館が公開しているこどもレファレンスシートによれば、長安は武田氏に仕えた猿楽師の家系の出で、もともと武士の身分ではありませんでした。しかし武田信玄に才を見出されて武士に取り立てられ、租税や食糧の管理など民政を任されるようになったと伝えられています。

転機が訪れたのは天正10年(1582年)です。織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、長安は大久保忠隣(おおくぼただちか、後の小田原藩主)の仲介を得て、徳川家康の家臣に加わりました。学術誌『水資源・環境研究』掲載の論文(鈴木泰「江戸時代の浅川治水と八王子のまちづくり」2014年)も、甲府で検地などを担っていた武田家旧臣が徳川家に仕えたと記しており、当初「大久保十兵衛」と称したことは複数の資料で一致しています。

猿楽師の家に生まれながら治水や民政の実務能力によって取り立てられたという出自は、後の八王子統治における長安の手腕を考えるうえで見逃せません。武士としての出自を持たない人物が、やがて関東有数の実務官僚として重用されていくことになります。


八王子城落城と代官頭としての赴任

天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉配下の上杉景勝・前田利家の軍勢が八王子城を攻撃し、城は落城しました。城主・北条氏照(ほうじょううじてる)は小田原城にあり、翌7月の小田原開城の際に北条氏の人々とともに切腹し、北条氏は滅亡しています。八王子市立図書館のこどもレファレンスシートは、当時の様子を「戦に敗れて落城し、城主も失った八王子の町は武士たちがうろつき、荒れ果てていました」と記しています。

徳川家康の関東移封に伴い、長安も八王子に入りました。学術論文は「大久保十兵衛(後の大久保石見守長安)が赴任し、社寺の保護、町立て、検地などを行い、死去する1613年(慶長十八)までの間この地域を支配した」と説明しており、代官頭として赴任し死去まで八王子を治めたことは史実として確認できます。

陣屋は小門宿に置かれ、後に「関東十八代官」と呼ばれる長安配下の多くの代官の陣屋も、この周辺に集められました。陣屋には牢屋も設けられ、警察としての役割も果たしていたとされています。その跡地は現在の産千代稲荷神社(うぶちよいなりじんじゃ)と伝えられ、市指定史跡「大久保石見守長安陣屋跡」として今に残っています。長安は交通網の整備にも力を入れ、甲州街道の一里塚のひとつである竹の鼻一里塚跡(新町竹の花公園)も、長安が設けたと伝えられる史跡として現存しています。


八王子横山十五宿の町割り

八王子城落城後、旧城下町——後に「元八王子」と呼ばれるようになる土地——は廃されました。代わって、約8キロメートル東方にある浅川右岸の沖積平野に、計画的な新しい町がつくられたのです。これが現在の八王子市中心市街地の原型であり、学術論文はこの新町について「現在に至っている」と述べています。

甲州街道の整備にあわせて、東から横山・八日市(ようかいち)・八幡の3宿が元八王子から移転し、その後宿場は次第に増えて、最終的に「八王子十五宿」と呼ばれる宿場町が形成されました。八王子市郷土資料館のこども歴史シート「八王子の宿と市」は「八王子宿は、十五の宿場からなり、横山宿と八日市宿を中心に発展しました。はじめは、横山とよばれていましたが、しだいに八王子とよばれるようになりました」と説明しています。

移転の時期については、学術論文が宿越(しゅくごえ)と呼ばれる移住記録や千人同心の記録に基づき、具体的な年を示しています。それによれば、1592年(天正20年)までに横山・八日・八幡宿への移住が、1593年(文禄2年)までに千人頭の拝領地への移転が終わっています。町の中心街路である甲州街道沿いには、長安の代官陣屋を中心として、関東十八代官の陣屋、宿と市場、武家町、旧城下から移転した社寺が計画的に配置されました。

横山宿と八日市宿では月に6回の六斎市(ろくさいいち)が開かれ、八王子宿は市を中心とする地域経済の中心都市として発展していきます。元禄期に入ると宿場の充実にあわせて「時の鐘」もつくられました。八王子市の公式資料によれば、この鐘は元禄12年(1699年)、八日市名主・新野与五右衛門を大旦那として、千人頭や千人同心をはじめ近郷村々の協力によって鋳造されたもので、現在は市指定有形文化財となっています。


石見土手 —— 浅川治水と現存する石積み

八王子宿の建設と並行して、長安は浅川・南浅川の治水にも取り組みました。両河川はたびたび氾濫し、新しい町に大きな被害をもたらしていたためです。長安の指揮のもとで築かれた堤防は、その官途名「石見守」にちなんで「石見土手」(いわみどて)と呼ばれるようになりました。

堤の規模については、江戸幕府が編纂した公式地誌『新編武蔵国風土記稿』(文化7年〈1810年〉起稿、天保元年〈1830年〉完成)に記録が残っています。学術論文による引用によれば、石見土手は「長さ南の方八十八間(約160メートル)、北の方百八十八間(約338メートル)」にわたる堤防で、「初め大久保石見守が指揮にて築きしゆえこの名あり」と説明されています。江戸時代の別の地誌『武蔵名勝図会』(文政6年〈1823年〉)にも、由井領・小宮領・日野領の村々に課役して長堤を築かせたという伝承が記されており、史料によって堤の規模の記述には差異があるものの、大久保石見守による築堤という事実自体は複数の史料で一致しています。

現存状況について、八王子市の公式資料は「現在は宗格院(そうかくいん)本堂の北側境内に、石積みを残しています」と記しています。学術論文も、宗格院境内に石積みの土手が30メートルほど残っていると一致して報告しており、市指定史跡として今も見ることができます。学術論文はこの治水事業を、連続堤防による洪水流の流入阻止と、南浅川を浅川に直角に合流させるという二つの目的を組み合わせた総合的なものと評価しています。


千人同心の成立

千人同心の源流は、武田氏の旧臣であった小人頭(こびとがしら)9名と、その配下約250名の「小人」でした。彼らは八王子城落城後、甲斐国から八王子城下に配備され、治安維持にあたっていたと学術論文は説明しています。

長安は八王子宿の整備にあたり、警備を強化するためにこの集団を拡大し、「千人体制」としました。八王子市の公式資料は「八王子宿の整備にあたった代官頭の大久保長安は警備強化のため、小人を千人体制とし、ここに千人同心が成立しました」と明記しており、長安が千人同心成立の中心人物であったことは公式資料でも確認できる史実です。千人同心の屋敷地は現在の千人町に置かれ、当初は「五百人町」、後に「千人町」と呼ばれるようになりました。

千人同心は当初、甲州との国境警備や治安回復を担いましたが、その後は日光東照宮の火の番を幕末まで務め、幕末には海防意見書の提出や情報収集、蝦夷地の防衛・開拓にも従事しています。この蝦夷地開拓の縁は現在にも受け継がれており、北海道白糠町(しらぬかちょう)と八王子市の小学生の間では、平成11年(1999年)から交流事業が続けられています。文化的な側面では、地誌『武蔵名勝図会』を著した組頭・植田孟縉(うえだもうしん)をはじめ、地理学や蘭学に優れた人材も多数輩出しました。


大久保長安事件とその後の顕彰

長安は慶長18年(1613年)4月25日、駿府——現在の静岡県で生涯を閉じました。八王子市立図書館のこどもレファレンスシートは、その死後について「徳川家康に生前の不正の疑いをかけられ、財産は没収、残された男子7人も死罪となってしまいました。家康の疑いが真実だったか分かりません」と記しています。これが「大久保長安事件」と呼ばれる出来事です。

学術論文は、この事件の影響で長安の八王子における事跡が長らく別人の功績とされてきた可能性を指摘しています。同論文は「八王子市内に長安署名の文書は、高尾山の制札、高乗寺文書を始め数点しか残っていない」とし、大久保家が処罰を受けた際に関係者も厳しい処罰を受け、文書等が失われたためだろうという見方を示しています。

事件から400年以上を経た現在も、長安の足跡は八王子のまちに残されています。産千代稲荷神社では毎年4月に慰霊祭「長安祭」が開催され、地域の市民研究団体「大久保長安の会」が史跡調査や顕彰活動を続けています。平成25年(2013年)には、八王子市郷土資料館が長安没後400年を記念して冊子『大久保長安と八王子』を刊行しました。宿場の町割り、石見土手、千人同心——長安が遺した仕組みは、いずれも姿を変えながら現在の八王子に受け継がれています。


まとめ

猿楽師の家に生まれ、武士ではなかった一人の男が、荒れ果てた城下町を計画的な宿場町に再編し、氾濫する川に堤防を築き、警備のための集団を千人規模の組織へと育て上げました。死後は不正の疑いをかけられ一族が処罰されるという厳しい結末を迎えましたが、長安が八王子に遺した町割りと治水の骨格は、四百年以上を経た今も市街地の土台であり続けています。宗格院に残る石積みの前に立つと、荒れ地から町をつくり上げた代官頭の仕事の重みを、静かに感じ取ることができます。


参考文献

八王子市立図書館 こどもレファレンスシート「大久保長安と八王子の町」 / 八王子市ホームページ「八王子市文化財保存活用地域計画(はちおうじ物語 其の五 八王子宿と千人同心)」 / 八王子市郷土資料館 こども歴史シート「八王子の宿と市」 / 鈴木泰 著「江戸時代の浅川治水と八王子のまちづくり」水資源・環境研究 Vol.27, No.2 / ミツカン水の文化センター「大久保長安どんな人? 八王子のまちづくりと伝承地」

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。