横山党と横山時兼 —— 武蔵七党随一の武士団は、なぜ姻戚のために滅んだか
武蔵国最大勢力を誇った武士団・横山党は、なぜ鎌倉幕府の内紛でわずか数日のうちに滅び去ったのか。最後の惣領・横山時兼の生涯から辿ります。

この記事の目次
JR八王子駅北口から歩いて15分ほど、「元横山町」という町名の一角があります。なぜ「元」なのか——そこにはかつて、武蔵七党の中でも最大勢力を誇りながら、鎌倉幕府の内紛にわずか数日で巻き込まれ、一夜にして滅び去った武士団の記憶が眠っています。彼らはなぜ、ここまで勢力を築きながら消えてしまったのか。その顛末を追っていきます。
連載「桑都人物誌」第16回|この連載をまとめて読む
横山庄を治めた武士団
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、武蔵国多摩郡横山庄——現在の東京都八王子市元横山町付近——を本拠とした武士団がありました。「横山党」です。武蔵国を中心に在地武士たちが構成した同族的武士団「武蔵七党」のひとつで、七党の中でも最大勢力とされ、横山・小野・目黒・海老名など傘下の氏族は70にも及んだと伝えられています。勢力範囲は武蔵国だけにとどまらず、上野国・相模国(現・神奈川県相模原市・愛甲郡)、甲斐国(現・山梨県上野原市)にまで庶流が広がっていました。
武蔵七党とは、平安中期以降に武蔵国内で自然発生的に成長した在地武士団の総称です。その中で横山党が最大勢力とされる背景には、朝廷の牧を管理する立場にあった一族が、周辺の在地武士たちを取り込みながら勢力を広げていった経緯があります。
その起源は、924年(延長2年)に遡ると伝えられています。横山党の祖とされる小野氏の一族が、現在の元横山町の地に山城国・石清水八幡宮を勧請しました。これが、後の八幡八雲神社の起源とされています。一族はこの地を開拓して「横山村」と名づけ、朝廷へ献上する馬を育てる牧——横山庄——の別当(責任者)職を務めたことから、小野姓を横山姓に改めたと伝わっています。多摩丘陵一帯を古くは「横山」と呼んでいたことに由来する名称で、特定の一地点の地名にちなんだものではないとされます。
なお、開祖の個人名については「小野孝泰」「小野義孝」など情報源によって表記に揺れがあり、確定的な人名は特定できていません。それでも、一介の在地開拓者が朝廷の牧を任されるほどの信頼を得て、やがて武蔵最大級の武士団の祖となっていく——この成り立ち自体が、横山党という一族の性格をよく表しています。
鎌倉幕府草創期、いち早く参陣した父子
横山党が歴史の表舞台で存在感を増していくのは、11世紀の前九年の役(1051年〜1062年)で、武将・横山経兼が源頼義に従軍し戦功をあげたと伝えられるあたりからです。この従軍を機に、横山氏は武蔵の在地領主から、中央の軍事貴族・源氏と主従関係を結ぶ武士団へと性格を強めていったと考えられています。
その姿勢が決定的な形で表れたのが、1180年(治承4年)の源頼朝挙兵でした。横山時広・時兼父子はいち早く頼朝のもとに参陣し、軍功を立てて鎌倉幕府の御家人に列せられたと伝えられています。時流を読む早さと行動力が、横山党をただの在地武士団から、幕府草創を支える有力御家人へと押し上げたのです。
その後の横山時兼の歩みも、幕府中枢との距離の近さを物語ります。1182年、源頼家——頼朝の嫡男——誕生の際には、梶原景時ら有力御家人とともに御護刀を献じる役目を務めたとされます。1190年には頼朝の上洛に随行し、右馬允(うまのじょう)に任官。1200年(正治2年)には淡路国守護に任じられたとも伝えられています。
こうした官職や役目の一つひとつは、単なる名誉職ではありません。将軍の身辺に近侍し、重要な儀礼の場に列することを許されるのは、幕府中枢からの信任がなければ成り立たないことでした。横山党一族からは椚田氏・海老名氏・矢部氏・相原氏など多くの分家が分かれ、武蔵国内外に所領を広げていきました。武蔵の一豪族が、幕府の中枢に食い込むまでにのし上がった——その絶頂期が、このあたりにありました。
時兼と和田義盛、姻戚という一本の糸
横山時兼は仁平3年(1153年)の生まれ、父は横山時広です。彼の人生を語るうえで欠かせないのが、鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛との関係でした。時兼の妹または娘が和田氏に嫁いだとされる系譜が伝わっており、両家は姻戚関係で結ばれていたのです。横山時兼はまた「小野時兼」とも称されました。横山氏がもとは小野朝臣姓であったことに由来する呼び名です。
一見、これは横山党にとって幕府内での立場を強化する良縁でした。和田義盛は侍所別当(御家人統率の要職)を務めた実力者であり、その縁戚に連なることは横山党の御家人としての地位をいっそう確かなものにするはずでした。
しかし、この姻戚関係こそが、後に横山党の運命を大きく左右することになります。鎌倉幕府の内部では、将軍を支える有力御家人同士の勢力争いが徐々に激しさを増していました。和田義盛と、執権として権勢を強めていた北条義時との緊張関係も、その一つでした。有力御家人の間では、姻戚や主従の関係が幾重にも重なり合っており、一つの家の浮沈が縁戚の家々を巻き込むことは珍しくありませんでした。横山党が和田家と結んでいたこの一本の糸が、やがて一族を存亡の淵へと引きずり込んでいきます。
和田合戦、3000騎の出陣と一族の滅亡
建暦3年(1213年)5月、和田義盛は権勢を強める北条義時打倒を掲げて挙兵しました。世に言う「和田合戦」です。義盛は姻戚関係にあった横山時兼や、従弟の三浦義村らと結び、北条方への対抗を図りました。
横山時兼は横山党を挙げて呼応し、3000騎ともいわれる大軍を率いて鎌倉へ出陣します。武蔵最大級の武士団の総力を注いだ、まさに一族の命運を賭けた進軍でした。ところが、参陣予定だった腰越への到着が遅れます。さらに、合流を約していたはずの三浦義村が、挙兵直前に北条方へ寝返りました。この裏切りによって和田方の計画は崩れ、和田・横山連合軍は鎌倉・由比ヶ浜での戦闘で北条方に敗れ去ります。
合戦の結果を記録した合戦注文によれば、和田方では和田一族13人、横山党だけで31人もの名のある武将が討死したとされています。敗戦を悟った横山時兼は、和田常盛(義盛の子)らとともに鎌倉を脱出し、甲斐国都留郡——現在の山梨県上野原市周辺——まで落ち延びました。しかし追い詰められ、建暦3年5月4日(1213年5月25日)、波加利荘の坂東山償原別所で自刃して果てます。享年61でした。武蔵七党随一の勢力を誇った一族が、わずか数日のうちに壊滅したのです。
消えた武士団、残った地名
横山党滅亡後、本拠地であった横山庄は、乱後に幕府政所別当・大江広元に与えられました。横山氏による武蔵国内での在地支配は、ここに事実上終焉を迎えます。3000騎を擁した武士団の所領は、こうして他者の手に渡っていきました。
けれども、地名としての「横山」だけは消えずに残りました。現在も八王子市の中心市街地には「元横山町」という町名が伝わっています。かつて横山党が拠った土地に、今日の横山町・八日町の商店街も広がっています。武士団としての実体は800年以上前に失われても、その名は今日まで地図の上に刻まれ続けているのです。
一族の記憶を今に伝える史跡も、いくつか残っています。昭和11年(1936年)9月24日には、横山党の根拠地とされる八幡八雲神社の境内一帯が、東京都の旧跡「横山党根拠地」に指定されました。境内には、建保2年(1214年、和田合戦の翌年)創建と伝えられる横山神社も鎮座しています。また、近隣の妙薬寺には、横山氏の墓とされる宝篋印塔「横山塔」が残されており、戦国時代の建立とされています。
横山党の分家である矢部氏の拠点とされる矢部城跡も、市内に残る史跡の一つです。3000騎を率いた惣領家は滅びても、各地に広がっていた庶流の記憶は、こうした形で断片的に受け継がれています。
一族の広がりは、八王子の外にも及びました。横山党からは海老名・愛甲・荻野・大貫・室伏・大串・平山・古市など多くの氏族が分かれ出たとされ、鎌倉幕府創設に際して源氏方についたことから、その後も各地に所領を得て広がっていったと伝えられています。加賀藩(現・石川県)の家老を務めた横山家や、出雲国・松江の美保神社の神主職を務めた家系など、全国の「横山」姓の家系が、そのルーツを横山党に求めているといいます。地名と、いくつかの史跡、そして各地に散った末裔——それが、武蔵七党随一の武士団が現代に遺した、静かな痕跡です。
まとめ
924年の勧請伝承から始まり、前九年の役での台頭、頼朝挙兵への即応、そして幕府中枢への食い込み——横山党は着実に力を蓄え、武蔵七党随一の勢力へと成長しました。しかしその絶頂は、和田義盛との姻戚という一本の糸によって、和田合戦というわずか数日の戦いに巻き込まれ、一族もろとも断たれてしまいます。元横山町という地名を歩くとき、そこにはかつて武蔵最大の武士団が本拠を構え、そして滅びていった歴史が、静かに重なっています。
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連載「桑都人物誌」は、八王子を形づくった人物を一人ずつ辿るシリーズです。
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参考文献
八王子市ホームページ「横山党根拠地」 / コトバンク「横山党」(改訂新版 世界大百科事典、百科事典マイペディア、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) / 鎌倉武将本家「横山党【横山時兼】2分解説」 / ニッポン旅マガジン「横山さんのルーツを探せ!」 / 日本実業出版社「横山一族の本拠地」
この記事は連載「桑都人物誌」第18話です
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