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風土と工芸の歴史 · 公開: 2026.09.12 · 更新: 2026.09.14 · 7分で読めます

高尾山ケーブルカーの100年 —— 貫首の発案から、関東大震災、戦時供出、そして開業100周年へ

天日に干される黄色い絹糸の束

最急勾配31度18分。国内のケーブルカーとしては最も急な角度を登る高尾山ケーブルカーは、2027年に開業100周年を迎えます。年間300万人が訪れる観光路線として知られる一方、その建設の動機は観光ではなく、ある僧侶が抱いた「参詣者の足を楽にしたい」という一心でした。震災による計画変更、戦時中の供出と休止、そして経営権の移動——100年近くの間にこの路線が越えてきた節目を、発案の時点まで遡って辿ります。


大正9年、貫首が抱いた「信徒の足の弁」という発案

高尾山薬王院有喜寺の第27世山主・武藤範秀貫首が、高尾山にケーブルカーを敷設する構想を抱いたのは、大正9年(1920年)3月7日のことと伝えられています。

当時の薬王院には、約30万人の信徒がいたとされます。しかし参拝は容易ではありませんでした。中央線浅川駅(現在の高尾駅)から高尾山麓まで歩き、さらに一里、約4キロメートルの山道を登ってようやく本堂にたどり着くという行程は、遠方から訪れる信徒や高齢の信徒にとって大きな負担だったのです。

貫首の発案の趣旨は「高尾に登山電鉄を敷設し来山する信徒の足の弁を図れば、さらに多くの人々に御仏の教えを広めることができるであろう。又、来山者が多くなれば浅川村も経済的に潤う」というものだったと伝えられています。信仰を広めるための便宜であると同時に、地域の経済にも資するという発想が、すでにこの発案の段階から示されていたことになります。

地元の協力者として名が伝えられているのが、薬王院用度部(寺の経理・庶務を担う部署)の責任者であり、前浅川村村長でもあった高城正次氏です。寺の内部だけでなく、地域の有力者を巻き込む形で構想は動き出しました。寺の経営を差配する立場にありながら、村長経験者として地域の事情にも通じていた高城氏の存在は、寺と地元集落の双方を納得させるうえで欠かせなかったと考えられます。

信仰の便宜と地域経済という二つの動機がそろって初めて、一介の構想が実際の事業として動き出す土台が整ったことになります。


免許交付から関東大震災による計画変更、そして開業まで

構想から1年余りが経った大正10年(1921年)8月、鉄道敷設の免許が交付されました。同年9月には、事業主体として高尾索道株式会社が設立されます。この会社は、後の高尾登山鉄道、現在の高尾登山電鉄株式会社の前身にあたります。

しかし、建設は順調には進みませんでした。大正12年(1923年)、関東大震災が発生し、当初予定していた山上駅の建設予定地が崩壊してしまいます。事業は路線変更を余儀なくされました。加えて、官有林野(国有林)の借用や森林伐採の交渉、高低差271メートルを路線長約1,000メートルという短い距離で結ぶという、国内でも施工実績の少ない急勾配区間の建設技術など、複数の困難が重なったと伝えられています。

震災による計画変更を経て、大正14年(1925年)6月に工事に着手しました。そして昭和2年(1927年)1月、工事が完成し、清滝駅から高尾山駅までの区間で運行を開始します。開業日は1月21日とする記録が残っています。このケーブルカーは、当時の日本国内では5番目に開業したケーブルカーだったと伝えられています。発案から数えて、実に7年の歳月がかかった計算になります。


高低差271メートルを支える技術 —— 日本一の急勾配

開業した高尾山ケーブルカーを特徴づけているのが、その勾配です。最急勾配区間は31度18分、パーミル表記では608パーミル(1,000メートルの水平距離につき608メートル上昇する角度)にあたり、これは国内のケーブルカー(鋼索鉄道)路線としては最急勾配にあたります。路線長は1,000メートル、高低差は271メートルです。

車両の自重は10.7トン、最大乗車定員は135名。この急勾配を安全に支えているのが、直径42ミリメートルの鋼索(ワイヤーロープ)です。安全率は10倍以上とされ、万一ロープが切れるという事態が起きても、わずか2メートル程度滑っただけで停止できる自動ブレーキ機構が備えられています。運転速度は秒速3.3メートルです。

数字だけを見ると急勾配という条件は不安を感じさせますが、そこには開業当初から幾重にも安全対策が組み込まれてきたことがうかがえます。関東大震災による計画変更という試練を経て設計された路線だからこそ、地盤や勾配への配慮が徹底されたとも考えられます。急勾配という制約を克服するための技術は、開業から今日まで、後述する車両更新のたびに引き継がれてきました。


昭和19年の休止、昭和24年の復活

開業から17年が経った昭和19年(1944年)2月11日、高尾山ケーブルカーは営業を休止します。戦局の悪化に伴う企業整備令により、車両や巻上機械などの主要設備が戦争資材として供出されたためでした。参詣者の足として生まれたこの路線もまた、戦争の影響を免れることはできませんでした。

休止からの復活は、戦後まもない昭和24年(1949年)に果たされます。ケーブルカーとしては全国的にも戦後いち早い再開だったと伝えられています。信徒の足を確保するという開業当初の目的が、戦後復興の中でいち早く取り戻されたことになります。


戦後の観光開発と、2017年の京王グループ入り

戦後、高尾山ケーブルカーは信仰の足という役割に加えて、観光インフラとしての性格を強めていきます。昭和36年(1961年)には山上に展望塔が建設され、ゴンドラによる観光が始まりました。昭和39年(1964年)10月10日、東京オリンピック開会式と同じ日に、高尾山のリフトが運行を開始しています。ゴンドラは昭和54年(1979年)の事故により撤去されましたが、展望台部分は現存し、季節営業が続けられています。

車両やケーブルカー本体の更新も重ねられてきました。昭和43年(1968年)には全自動制御による近代化が図られ、平成20年(2008年)には4代目となる新型車両に入れ替えられました。平成26年(2014年)には、ケーブルを巻き上げる主要機械である巻上機が更新されています。

そして2017年(平成29年)6月15日、経営の面で大きな転換点が訪れます。京王電鉄が高尾登山電鉄を子会社化したのです。開業以来、高尾登山電鉄は地元資本の武蔵野不動産を筆頭株主とする独立会社として運営されてきました。京王電鉄も出資はしていましたが、京王グループには属していませんでした。

この日、京王電鉄が筆頭株主の武蔵野不動産から全株式を取得し、京王電鉄の出資比率は27パーセントから62パーセントへ引き上げられます。この結果、2017年3月期決算より、高尾登山電鉄は京王電鉄の非連結子会社(持分法適用会社)となりました。本社所在地は東京都八王子市高尾町2205番地のままですが、資本の面では地域からグループ企業へと軸足が移ったことになります。開業から約90年間、地域資本を軸に独立して運営されてきた鉄道会社が、観光振興を一体で進める狙いから京王グループに組み込まれた、経営史上の転換点にあたります。参詣者の足として始まった路線が、沿線全体の観光戦略の一部として位置づけ直された瞬間ともいえるでしょう。


2027年、開業100周年へ向けた大刷新

高尾山ケーブルカーは2027年(令和9年)に開業100周年を迎えます。これに向けて、高尾登山電鉄は新車両の導入と高尾山駅の改築を含む「大刷新」を発表しています。

平成20年に4代目車両へ入れ替え、平成26年に巻上機を更新するなど、これまでも節目ごとに設備の更新を重ねてきた路線です。今回の大刷新は、その延長線上にありながらも、100周年という節目に合わせた大規模な取り組みとして位置づけられています。

大正9年に一人の貫首が「信徒の足の弁を図る」と願って発案してから、震災による計画変更、戦時中の供出と休止、戦後の観光開発、そして経営権の移動を経て、この路線は今なお現役で山上へ人を運び続けています。100年という時間の中で目的や経営の姿を変えながらも、参詣と観光の足であり続けてきたことが、この路線の一貫した性格だといえるでしょう。


まとめ

高尾山ケーブルカーは、信徒の参拝を楽にしたいという一人の貫首の願いから生まれ、関東大震災による計画変更や戦時中の休止といった困難を越えて、100年近くにわたって山上への足であり続けてきました。地元資本による独立経営から2017年の京王グループ入りへという経営の転換も経験しながら、2027年の開業100周年に向けた大刷新を迎えようとしています。日本一の急勾配という技術的な特徴の背後に、これだけの歴史が積み重なっていることを知ると、次に乗る一本がまた違って見えるはずです。


参考文献

戸籍の氏名振り仮名記載制度 —— 届出期限(2026年5月25日)後、通知を放置した戸籍はどうなるか

暮らしと法律 · 7分

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。