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桑都の人 · 公開: 2026.09.08 · 更新: 2026.09.14 · 7分で読めます

横川楳子 —— 私財を投じ多摩地域初の女学校を興した八王子の教育者

明治期の八王子で、農家出身の一人の女性が私財を投げ打って多摩地域初の女学校を興し、そして最後は自らそれを手放しました。横川楳子の歩みと、今日の学校・図書館に続く系譜をたどります。

日本庭園の苔むした石燈籠

「女に教育なんかいるもんか、針仕事ができればいい」——明治初期の日本ではそう考える人が珍しくありませんでした。そんな時代の八王子で、一人の女性が私財を売ってまで女子のための学校を興し、20年近く経営を続けたあげく、最後は自らその学校を手放しています。なぜ苦労して築いたものを手放したのか、そしてその決断が今日の街にどうつながっているのか、横川楳子(よこかわうめこ)という人物の歩みから見えてきます。


学問を求めて八王子を出た少女

横川楳子は嘉永6年(1853年)、武蔵国多摩郡横川村(現・八王子市横川町)の旧家に生まれました。父は高徳、母は新といい、幼いころから勉強熱心で、漢文や習字、算数などを学んでいたと伝わります。当時の農村の女子としては、学問への関心が強い子どもだったようです。生家がある「横川」の地名は、後年彼女が学校を開くことになる「横山町」とは別の町であり、両者を混同しないよう注意が必要です。

その関心は、成人してからも冷めませんでした。明治11年(1878年)、楳子は東京女子師範学校(明治7年〈1874年〉開校。現在のお茶の水女子大学)の附属幼稚園に保母練習生として入り、その後は保母、つまり幼稚園教員として勤務します。開校からまだ数年しか経っていない、日本でも最先端の女子教育機関でした。

勤めのかたわらでも学ぶ手を緩めず、保育唱歌や西洋唱歌、琴、風琴(アコーディオン)といった音楽の科目に加え、物理学や高等数学まで修めたといいます。当時、女性が高等数学や物理学までを学ぶ機会はきわめて限られており、多摩の農村から出てきた一人の女性がここまで学びを積んだこと自体が異例でした。明治16年(1883年)には、同校の舎監(取締)に昇格したという記録も残っています。東京の教育機関で着実に立場を築いていった時期でした。


「女に学問はいらない」と言われた時代の八王子

楳子がこうして学びを深めていたころ、日本の教育制度そのものがまだ揺籃期にありました。明治5年(1872年)に「学制」が公布され、全国に小学校を設置することが定められましたが、実際には教育費用の多くを地域住民が負担せねばならず、寺院や集会所を間借りした小規模な学校が大半でした。授業料や教科書代も家計にとって軽くない負担で、家業の手伝いを理由に通学できない子どもも珍しくありませんでした。

女子教育については、状況はさらに厳しいものでした。「女に教育なんかいるもんか」「針仕事ができればいい」という江戸時代以来の考え方が、依然として根強く残っていたのです。実際、明治7年(1874年)時点の八王子の就学率は男子46%に対し女子37%にとどまり、市内の教員はすべて男性だったという記録が残っています。

女子を教える立場の教員自体が地元に一人もいなかったという状況は、女子教育を受けようとする側にとっても、それを担おうとする側にとっても高い壁だったことを物語ります。こうした環境のなかで、東京に出てまで学問を続けた楳子の歩みは、当時としては例外的に困難の大きいものだったといえます。


父の死と帰郷、そして教育授業所の始まり

転機が訪れたのは明治17年(1884年)のことです。父の死去により、楳子は八王子に帰郷することになりました。東京で教育者としての足場を築きつつあった楳子にとって、故郷に戻ることは決して単純な喜びではなかったはずです。しかし楳子は、八王子の女子教育の遅れを目の当たりにし、自宅に女子を集めて裁縫などを教え始めます。

その活動は少しずつ形を整えていきました。明治21年(1888年)には横山町の住宅を借りて、女子のための「教育授業所」を開設します。自宅での手習いから、場所を構えた授業所へ。小さくとも、継続的に教える体制を持ったという点で大きな一歩でした。

明治24年(1891年)には上野町(現・天神町)に西洋風の校舎を新築するまでになります。そして翌明治25年(1892年)、正式な認可を受けて「私立八王子女学校」と「八王子幼稚園」が設立されました。女子と幼児を対象とした教育機関としては、多摩地区で最初のものでした。帰郷からわずか8年で、楳子は一人の教師から学校の創立者へと歩みを進めたことになります。


私財を投じた学校経営との闘い

学校を興したことは、しかし物語の終わりではなく、むしろ長い苦闘の始まりでした。幼稚園では積み木や板ならべ、絵の描き方、数え方など16科目、女学校では修身・読書・習字・作文・裁縫・筆算を中心に、希望制で西洋史や植物学といった選択科目まで用意されていました。裁縫や習字だけでなく西洋史や植物学まで学べる場を地方都市の女学校が用意していたこと自体、当時としては先進的な試みだったといえます。

これだけ充実した教科を教えるには、多くの教員と西洋式の教育道具の導入費用が必要で、それがそのまま学校経営を圧迫する要因になっていきます。理想の教育を追い求めるほど支出がかさむという構造が、この学校には最初から組み込まれていたことになります。

追い打ちをかけたのが、時代のうねりでした。明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争、明治30年(1897年)の八王子大火、明治37〜38年(1904〜05年)の日露戦争——これらの社会的な出来事はいずれも、生徒数、つまり月謝収入の減少要因となりました。学校経営が月謝という不安定な収入に支えられていた以上、戦争や大火といった社会の混乱は、そのまま学校の財政を直撃したのです。

楳子は自らの家財を売って資金を捻出しながら、それでも教育を続けます。明治39年(1906年)3月までに、楳子個人の資金として数千円が投じられたとされています。参考までに、明治41年(1908年)当時の大卒銀行員の初任給が35円だったことを考えると、この金額がいかに大きな負担だったかが想像できます。一人の教育者の家計が傾くほどの金額を、20年近くにわたって注ぎ続けたことになります。


すべてを東京府に託した決断

私財を投じて奮闘した楳子の功績は、やがて東京府にも評価されるようになりました。八王子町議会でも女子教育の重要性が認識され、府立女学校を八王子に誘致しようという動きが起こります。一民間人が20年近くかけて築いてきた実績が、行政を動かす後押しになったといえます。そして明治41年(1908年)4月1日、東京府立第四高等女学校が開校しました。

このとき楳子が下した決断が、彼女の歩みの核心にあります。楳子は私立八王子女学校の校舎・校具のすべてを東京府に寄付し、在学中の生徒全員を新設の府立高等女学校に入学させたうえで、自らは女子教育の第一線を退いたのです。20年近くかけて私財を投じ育て上げた学校を、丸ごと公のものへと引き渡す選択でした。生徒を路頭に迷わせず、まとめて新しい学校に迎え入れさせたところに、楳子が最後まで生徒の側に立って判断していたことがうかがえます。

東京都立南多摩中等教育学校の公式沿革ページにも、「明治41年(1908年)4月1日、横川楳子が運営していた八王子女学校の資産と在校生をすべて寄付し、東京府立第四高等女学校として開校」したことが明記されています。同校の敷地内には、昭和11年(1936年)に建立された横川楳子の胸像が今も置かれています。私財を投じた側の人物の像が、公立学校となった後の敷地に残されているという事実自体が、この学校にとって楳子がどれほど重要な存在だったかを物語っています。


その後の歩みと、図書館・学校へ続いた系譜

女子教育の第一線を退いたあとも、楳子の地域での活動は終わりませんでした。八王子婦人会長などを務め、地域活動を続けたと伝わります。学校という場からは退いても、地域の女性たちのために動く立場そのものは手放さなかったことになります。大正15年(1926年)、楳子は73歳で生涯を閉じました。

楳子が去った旧校舎(天神町)にも、その後の物語があります。明治41年(1908年)から2年間は教員養成の場として使われたのち、明治43年(1910年)に図書館設立が計画され、翌年に八王子町立図書館、大正6年(1917年)9月には市立図書館となりました。学校の校舎が図書館へと転じたのは大正12年(1923年)までのことで、その後も八王子の図書館事業はこの系譜を引き継いでいきます。楳子が私財を投じて建てた校舎が、巡り巡って図書館という別の学びの場の前身になったことになります。

学校そのものの系譜も途切れていません。東京府立第四高等女学校は、昭和23年(1948年)に新制中学校を併設して男女共学へ移行し、昭和25年(1950年)1月に「東京都立南多摩高等学校」と改称、平成20年(2008年)には創立100周年を迎えました。そして平成22年(2010年)4月、「東京都立南多摩中等教育学校」として現在の形になっています。一人の教育者が私財を賭して築いた場所は、校舎の姿も名前も変えながら、百年以上にわたって学びの場であり続けているのです。


まとめ

学問を求めて八王子を出た一人の女性は、故郷に戻ると私財を投げ打って女子のための学校を興し、そして最後にはそれを公のものへと差し出しました。手元に何も残さないその選択は、一見すると損なことのようにも見えます。しかし、楳子が築いた場所は学校として、そして図書館として、今も八王子の学びを支え続けています。

学校を自分の手元に残すことよりも、女子教育そのものが確実に続くことを選んだ——その優先順位のつけ方に、横川楳子という人物の核心があるように思えます。私財を惜しまず、しかし所有には固執しなかった生き方は、百年以上を経た今も静かに問いかけてくるものがあります。


参考文献

カスタマーハラスメント対策、10月から義務化 —— 何が変わり、どう向き合えばいいか

暮らしと法律 · 8分

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カヅキ

カヅキ

桑都手帖 編集者

ものづくりや意匠設計を学んだ経験をもとに、八王子の風土・歴史・伝統工芸を現代につなぐ記事を書いています。暮らしの手続きについても、調べたことをそのまま書き留めています。